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カテゴリ:自分を見つめる
逃避にも色々あって、一見逃避に見えない逃避があるのを初めて知った。
その解説というか、それを読んでいくと、とてもよく理解出来た、頭で。 でもこの手の逃避って自分もやっていたな、って思った。 一見素晴らしく前向きな理由で、そちらの方に突っ走っていってしまうのだけど、実は見たくない、感じたくないものから、逃げている、というもの。 本人は、その逃避に気づかず、おかしいという人がおかしいって思いこんで、理解してくれないからと切り捨てたりする。 これに気づいて向き合える人は、本当に少ないと思う。 何せ逃げているモノは本人にとってもっとも見たくない、二度と感じたくないそう言う類のものだから。 それをポジティブなモノにすり替え、前向きにしていると思い込むのだから、相当根が深いと思う。 逃避している事に気づきつつ、逃避し続けるのも我ながらどうかと思うが、それ以上に気づいてない分厄介になる。 もう一人、人の痛みから逃げようとしている人をみた。 それは震災など起きても、結局それは新しい始まりに過ぎない、と言う様な事を言っていた。 だから何があっても大丈夫だと。 人さえ死ななければ何とか新しいものが立ち上がるだけだ、と。 確かに大局から見れば、そうなのだけど、ただその考えに陶酔して現地の人たちの悲しみや苦しみに同調するのから逃げているような感じがした。 それらを感じたら。 自分の無力感や無価値観を深く感じてしまい、堕ち込んで浮上できないのかもしれない。 どうしても身動きのできない絶望や、呆然としたり、新しく立ち上がる気力のなさとか、何をどうすればいいのか分からない状態とか。 それに対して自分が何もしてあげれない、と言うとにかくただの無力な人間にしか過ぎないという絶望感。 それらを感じながらも、でもそれでも、と言うのが地に足がついた考え方だと思う。 某孫さんみたいに何億もの資金があれば、アレコレしてあげれるのに。 特殊な技能があれば、アレコレ出来るのに。 そんなことは誰でも考え、何もない自分に憤りを感じる。 でも次に、じゃあ、それでも自分のできることって何だろう。 そうやって何か考えて行動するのが、本当じゃないのかな? 実際自分がそういう状況になったら、その実感が出来るかどうかが肝のような気がする。 そこまで考えないで、大局ばかり言っても、やっぱり逃避にしか見えない。 人の痛みを自分のことのように感じることは、とても大切なこと。 でもだからと言って、その人を何とかしてあげようとか、手を出すのはやっぱり違うと思う。 それは自分が痛みを感じるのが嫌だから、相手をコントロールする、と言うことになってしまう。 それは相手を尊重していない、自分の感じることから逃げたいだけ。 人は逃げることに、とにかく力を注いでいるんだな、とこれを書きながら思った。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
Last updated
2011.04.09 20:41:13
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