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カテゴリ:自分を見つめる
ふと先日、違和感を覚えることがあった。
一体それは何だろう、と思った時に思い出したのが、人格統合に関する本の一節だった。 どの本の何処の箇所か今読み返したが、見つけれなかったので、ザクッと概要だけ。 チャネリングもニュートラルな視点を確立してなければ、宇宙の法則に則った情報を、チャネラー自信の都合の良いように、幾らでも脚色出来る。 と言うような内容だったと思う。 実際に私自身がそうだったように、結構人は簡単に自分の都合の良いように、物事を理解し、脚色し、そして伝えることがある。 特に感情にとらわれている時は尚更だ。 今の自分の気持ちに合わないものは、あっという間になかったことになり、下手したら脚色され歪んで捉えているものだ。 そして他者からの情報を 「歪んでいる、勝手に脚色している、妄想世界に浸っている」 等と吹聴して回ることもある。 その場合、大抵の5次元存在たちは苦笑して、その様子を見ているに留める。 わざわざ指摘したりなど、一切しない。 それが私たち3次元での課題であり、学びであり、それを経験する為にわざわざここにいるのだから。 そう思うことがあった。 同時にやはり自分の身に覚えがあるので、思わず苦笑してしまった。 ハッキリ言ってかなり噴飯ものだった。 あんな状態で、自分はニュートラルで正しい、と思いこんでいたこと自体が哀れで情けなかった。 感情にとらわれることが、間違っている訳じゃない。 その時に降りてきた情報を、自分の都合の良いように脚色して解釈したことが、誤っていたと思う。 まだまだ人格統合を始める前の話だ。 闇やネガティブを受け入れる、とは。 自分の中にそれらがある事を認めているだけでは、ハッキリ言って足らない。 強いて言うならば、お客様を通す居間だけきれいにして、別の部屋に汚いものや色々なものを押し込んでいる状態とも言える。 闇やネガティブを見たがらない人達は、一般のポジティブシンガーたちや、光信仰の信者たちはその部屋の存在さえ見ようともしないし、ある事さえも自己催眠によって認めることができない。 また、自分の中にネガティブや闇を認めている人は、扉があることは認めている。 その向こうに何がうごめいているかも知っている。 でも消してその扉を開けて、そのものと対峙しようとはしない。 中を覗いて掃除でもしたら、と言うモノならば、まるで天変地異が来たかのような、まるで殺人鬼に殺されるかのような、大騒ぎをして、こちらを攻撃したりする。 闇やネガティブとは向き合って、昇華しないと、何時まで経っても同じことの繰り返しだ。 成長しているようで、まるで回し車に乗ってまわして、何処かに行きついたつもりになっているだけの様な気もする。 「上」と仲間内で読んでる場所がある。 多次元の一つで、もう一人の自分が存在する場所だ。 そこを感知すること(一種のチャネリング)で、自分の霊的成長をが進む、と思っている人たちもいる。 だが、私はそれだけでは何か心もとないというか、漠然とした先詰まりを感じていた。 だからこそ、気になっていた「人格統合」を始めた。 そして今はその選択は間違ってないと思う。 分裂人格垂れ流しで、疎遠になった人がどんなに多くても。 一種のふるいを掛けたようなものだと思う。 エセ宝石ではなく、本当に輝く宝石な人達だけを残すための。 それも本来の自分に戻るための、大事な過程の一つなんだと思う。 例えどんなに寂しくても。 もちろんそうでない方法もあるのだろう。 でも私が選択したのは、そうでなかっただけの話。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
Last updated
2011.05.04 21:02:54
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