|
カテゴリ:自分を見つめる
改めてまた分からなくなっている。
自分の気持ちに正直な事が、愛に基づいているとは限らない。 相手を思いやっていると思う事が、愛に基づいているとは限らない。 見守る事が愛とは限らない事もある。 愛を持って見守るしかない時もある。 昨日マイミクさんと話をしててこれって何だろう、と自分で自問した。 他人の心配をしているのは確かだけど、でも今手を出すのは違うと感じている。 今話をしても受け取らないだろう、無理だろうと考えているのは、誰なんだろう。 プライド人格も少し入っていて、夢見良い子の悲しみも入っていて、厄介事を避けたいヤサグレの気持ちも入っている。 もちろん本気で心配している主人格の気持ちも入っている。 でもその裏にあるのは何だろう。 結局、前ほど強くは無いが人を見下したいプライドがかなり入っているのだろうと思う。 もともと私はプライド人格が大半を占めているし、そこからなかなか抜け出せてない。 次に夢見良い子の影響がある。 自分はただしいという観念もまだまだあるし。 ただ、そう言う他人の話しかしない私って、どうなんだろうって気持ちもあり、やっぱり自分の気持ちをメインに考えて、なかなか相手の立場に立てない自分もいる。 相手の立場に立とうとうすると、それにかこつけて自己保身に走っていたりする。 結局自分が嫌な思いや、受け入れられないというものを感じたくなくて、相手の立場に立ったふりをして、手を出さずにいる。 実際に相手がどんな状況なのかもわかっている時もある。 自分の通ってきた道筋なので、余計に実感できたりする。 でもそうだからと言って、何もしないのも違うのかもしれないと思う。 実感できるけど、でもあえてやる姿勢も必要なのかもしれない。 人格達に飲まれていると、その辺りが分からなくなってくる。 頭でっかちで、知識と照合して物事を考えている。 そして自分の都合のよい事を、愛とすり替えて、納得している。 それじゃあ、駄目なんだと思う。 相手が上とららないと分かっていても、でも主人格を、分裂人格を成長させるために、あえて行動する必要があるのかもしれない。 ハートで物事を感じる事が慣れてないと、正悪で考えてしまう。 それでは意味がないと思う。 あえて動くのか、あえて見守るのか。 そうやって考えているうちは、やっぱり乗っ取られ状態なんだろうな。 私達の観念の愛は、とても色々なものに縛られている。 そうして本当の愛をあっさり見失ってしまう。 それでも、やっぱりそれを求めて行動していきたいと思う。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
Last updated
2011.05.20 20:58:51
コメント(0) | コメントを書く |