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カテゴリ:自分を見つめる
先日諏訪に行った時、友人が言っていた事です。
「今まで生きていたやり方が間違っていたとしたら、それまでの人生が無駄になる。 だから過ちは認めにくいし、生き方は変えられないよね」 いや、私はそうは思わなかったんだけど、でも何故か力説していたので、まあ良いかと流してしまったのですが。 でもこれ、人によると思うのですよね。 例えば、私みたいに何で人生が上手くいかないかとか、何でこんなに苦労しているんだろうと、当人が苦しんで悩んでる場合は、逆に今までの生き方が間違っていたと知ったら、それは簡単(じゃないかもしれないが)に生き方を変えようとすると思うのです。 だって間違った生き方をしていたから、苦しかったんで、間違いじゃない生き方をすれば、苦しくなくなるんですから。 でもそれなりに人生を楽しんでいて、それなりに成功していると思って満足している人にとって、今までの生き方が間違っていると知ったなら、それは相当ショックかもしれない。 自分の判断から何から何まで、全て根底から覆されるのだから、そう簡単には受け入れられないかもしれない。 今までの人生を肯定する為に、逆にその間違っている、と判断したものを攻撃するかもしれない。 逆に今までのやり方に固執するかもしれない。 それって何だろうな、と考えた時に、出てきたのはやっぱりプライド、何だと思う。 同時にあるのは、多分「間違い=自分の根本を否定される」という図式なんだろうな。 だから自己防衛反応に則って、相手を攻撃したりするのかもしれない。 間違いにも沢山種類があって、誰かにとっての間違いなら、当人にとっては間違っていないことはたくさんある。 ただ、宇宙の法則に則っての間違いの場合、やっぱりそれは間違いなんだと思う。 間違っていたら、「あ、間違いだったのね」と受け入れれば良いのだけではある。 間違っていたことは、別に無駄でも無意味でもないと思う。 そう言うデータが自分の中に蓄積されて、経験値になるだけだと思う。 否定じゃなくて、積み重ねていけるものだと思う。 それに失敗した経験がないと、何が成功かもわからないままだったりする。 本当に正しい事を知らないと、何が正しくて間違いかさえもわからなくなる。 今までが間違いだとしたら、何が間違いじゃないのか。 それを知ることの方が大事だと感じる。 でもやっぱり拒否や攻撃的な気持ちが出たら、気が済むまで自分の中のそれを肯定することも大事かもしれない。 むやみやたらと「良い子」になったり「大人」になったり、「物分かりのいい人」になる必要もない。 ありのまま、あるがまま。 で良いんじゃないかな。 だけど誰かに間違いだと言われたら、何故間違いなのかを追求する姿勢は必要だと思う。 そのうえで自分で判断するのが大事になってくるのだと思う。 以上、思った事でした。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
Last updated
2011.08.13 20:41:36
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