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カテゴリ:自分を見つめる
昨日京都へ行った時をちょっと振り返ってみて、今までとはやっぱりなんか違うって感じた。
もちろん変って無い事も沢山ある。 でもなんか違っていた。 一番は「こうじゃなきゃ」っていう思い込みがだいぶ薄らいでいることだと思う。 前はそれがあるために、他人にもそれを強要するようなエネルギーがあり、出来ないとイライラしていた。 さか恨みもしていたかな。 そしてそんな自分を自己正当化して他人を悪く言っていたり、逆に思いやれないってことで落ち込んだり。 そう言うのを感じなかった。 フツーにあるがまま、フツーに過ごしていた。 自分の気持ちを伝えることはまだまだだな。 何処か麻痺させて無かった事にしていたりする感じがする。 それも少しづつだな。 今日本屋に行ったら何故かまた体裁を整えなきゃ、みたいな思考が出てきた。 プライド? と思ったけど、なんかちょっと違う気がした。 何で、出てきた?って感じに探っていったら、結局そこにあったのは自己卑下というか、自信のなさだった。 それゆえに体裁を整えて、よりよく見せなきゃ、みたいな感じだった。 このエネルギーが何処から来たかを走査したら、なんと陽ちゃんだった。 自分が認められないから、自分のやっていることに不安がって、より何か基準を探してしまう。 そしてその基準に照らし合わせて動こうとする。 そうやって自分を認められようとする。 りつも同じような「こうじゃなきゃ」というものを持っていたが、陽ちゃんもそんな事をしてるとは思っていなかった。 恐怖ゆえに行うか、自分が信じられずに必死になるかの違いだけだけど、そりゃがんじがらめに自分を縛る訳だ。 んで動けなくなる訳だ。 結局自己卑下を見ていかないと、全然何の解決にもならんのだな。 ただこれは本当に人間不信も込みだから、何処まで表現できるか分からんな。 何せ自分は自己正当化のためなら、何でもする人間だから。 その破れかぶれな言動をして、他人に呆れかえられる事もあった。 辛いことから逃げるために、幾らでも目を逸らすことも今では出来る。 幾らでも逃避するし、幾らでも矛盾してないと思いこむこともできる。 恐怖と保身と引き籠りと。 そんな私が、どうやって根っこの部分を表現するというのだ。 ハッキリ言って出来る訳ない。 だからやってみる。 ただの逃避しか出てこなくても、まずはそれでいいのだから。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
Last updated
2012.04.16 20:57:59
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