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カテゴリ:自分を見つめる
いきなり、ふと、今まで変に自分を追い込んでいたんだな、と気づいた。
気分転換に何も考えずに、京都まで行って来たのも良かったんだろーけど。 ふと、そんな事を思った。 勝手に何か基準を作って、勝手にそれにならなきゃ、と思いこんで、その差異に自分をどんどん追い込んで。 いや、気付くとそりゃおかしいだろ、って思うけど、ハマってる時はホントーに気づかないんだよねぇ。 で、どんどんできない自分を責めて、自己卑下いにハマって、抜け出せなくて、周りに当たって、ヒス起こしてた。 それを更に自己嫌悪して、どんどんドツボにハマって行った。 そりゃ、どんどん嫌になって、きつくなって、放棄して逃避したくなるわ。 当たり前だ。 今日になって、そりゃ全然違うよな、って気付いた。 良い悪いじゃなくて、何でもあり、みたいな感じになってた。 良い悪いじゃなくてさ、優劣じゃなくてさ、結局自分がどうしてどうありたいかだよな。 だから他人から見えて、ありえん事でも、自分の中でそれがOKなら、OKのまま生きればいい訳で。 正論と言われるものが、いつでもその人の正解な訳でなく。 時には邪論だろうと、必要ならそれをすればいいことで。 それをNG出すなら、どうしたいのかを決めて、それを一つ一つやって行くことが大事で。 それこそ山を一晩で隣に移す事など出来ないように、一つづつ、自分の運べる範囲で運んで行くことが大事で。 時には岩にぶち当たって、手に負え無くて、やーめたっ!って言いたくなって当たり前で。 それはそれで置いておいて、他の出来ることから、やれることからやればいいだけで。 そうしたら、いつの間にか自分で動かせるようになっていたり、お手伝いが来てくれるようになってる事もある訳で。 一つのことをじっくり取り組みつつも、そこんところは柔軟にやればいいだけで、ただ放棄して無かった事にするのだけは、しないことが大事なだけ。 それこそバカみたいなことでも、自分にとっては大事でこだわるなら、それを徹底的にこだわってやってみればいいだけで。 そっから学ぶこともある訳で、誰もが同じ道を歩む訳では無く、似たものを持っていれば、こうすればいいのにと分かったとしても、それを強要できるものでは無く。 なんか、すごい当たり前だけど、当たり前で無い、「何でもあり」ってのはこーゆーことか、とひらめいた感じで分かった気がした。 まあ、分かったのは良いけど、これを行動に起こすことはまた別の段階な訳で、そこまでまだ行ってないんだけど。 そもそもこの感覚自体、明日まで保てるか分からんのだけど。 一生懸命、無い基準を探して右往左往して、それに合わせようとして居た事だけはよく分かったし、それをしてる限り、ドツボにハマって意味がないのも分かった。 アドバイスはアドバイスであって、絶対じゃなくて、それを受け取るのも拒否するのも自由であって、結果としてそこから何を得るかも、本人の自由だってことだ。 もちろん、カルマ清算をやる以上、一定のルールというか、基準と言うか、そういう方向性と言うか法則と言うかアウトラインはある。 ただそれは縛られるもんじゃなくて、必要に応じて変化させて行くものであるんだな、と思うし、だからと言って誰かの都合のための歪曲は、しない方がいいモノで。 何かそーゆーモノが、スコーンと入ってきた。 きつくて当然で、でも同時に楽しむ完成と言うか、緩急は大事で、時にはほっぽり出して遊ぶことも大事で。 ってなことに、放りだした成果、逆に分かってきた感じがする。 んで、やっぱり、私はカルマ清算したいな。 そりゃ、今生で全部は無理かも知んない。 でもちょっとでも進んでおきたいな、って思うし、課題が見えなくて右往左往しても苦しんでも、でもやりたいんだな、って思う。 必死にやらなきゃ、とか義務とかじゃなくて、ただ、単純に自分の望んでることだな、って感じる。 理屈じゃないな。 そんで、自分の成長欲求に呆れかえったりもする。 本能のように、進むことを求める。 でもそんなところは好きだな。 自分のペースで、のんびりしたり急ぎ足になったり。 せかされるんじゃんくて、自分のやりたいペースで。 そうだな、本来何でもありだな。 そんなことに改めて、自分から気づいた。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
Last updated
2012.09.16 22:31:20
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