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カテゴリ:自分を見つめる
新聞の夕刊に、痴呆の人に対する人としてあり方や、関わり方などの色々な試みの連載が今されてる。
痴呆と言われる人でも、施設ではないところで過ごすことが出来る。 ベッドに縛って意思を無いものとしての、介護は間違ってる。 そんな試みなどをしている人達の、記事だ。 それを見て思い出したのは。 丁度母が鬱になって、痴呆の症状が出て、ロクに起き上がれなくなって、入院するとなった時のこと。 それまで同じ家の中にいながら、母がどんな状態なのかも殆ど知らなかった。 体調悪くて鬱になってる、ッテことは聞いていたけど、入院してから見舞いに行って、症状を把握したに近い。 その痴呆の症状を見て、思ったのは、治らないことを前提に、私は介護が出来ないから施設に入れて離れて今後暮らすしかないかなぁと言うことと、施設って月額いくらかかるかなあ、私の給料で払ってさらに生活できるかなぁということだけだった。 あとは父と二人で暮らすことへのちょっとした嫌悪感と心配。 母がどう言う気持ちなのかとかは、丸っきり思いもしなかった。 12月に入院して、正月も結局入院になって、父はかわいそうだと言って泣いたけど、私はピンとこなかった。 自分でなりたくて鬱になって痴呆になったんだから、何が可哀想なんだろう。 そうやって同情を集めるための行為に可哀想だなんて思わないな、ということだった。 もちろんそうじゃない部分も存在したし、悲しい気持ちもあったけど、でも可哀想だとか人としてどうこうとか、そう言う見方はほぼ無かったな。 なので、新聞記事で痴呆になっても人としての尊厳だとか、本当に何もわからなくなってる訳では無いとか、人として暮らしていくための事とか、眼から鱗だけど、でも、やっぱりどこか遠い感じで見てる。 でも、それでも人として共感する部分もある。 だけどそれを自分の両親に置き換えると、何で人として扱ってやらなきゃいけないんだ、と言うのが出る。 そこから先には進まない。 対話しろ、思いをぶつけろ、と言っても、何でもかんでも覚えてない、分からない、知らない、人を悪者にして勝手に話を作り上げて、としか言わない母に、何を言えばいいのだろう。 言い方の問題、やり方の問題、とよく言われるけど、でもじゃあ、そのやり方や言い方をやって見せろよ、って思う。 本当にしみじみそう思う。 本当の現状を知ろうともせずに、話を聞いただけで何が問題かとかだけを話す人のアドバイスは、ハッキリ言って響かない。 結局ここだな。 気持ちや思いをぶつけた時の悔しさや悲しさがまだまだ未消化で、そこから先に進まない。 受け取ってもらえないことの悲しさや、責任転嫁して自分の非を認めない馬鹿母への怒りとか、何でも悪くない自分が可哀想と言う被害者意識から、一歩も出ず相手を平然と責める厚かましさへの憎しみとか、それらを踏まえての侮蔑とか。 そしてそれらを誰も分かってくれないことの淋しさと悔しさと。 本当に分かってくれないんだよ、子供が親にそんな事を言う方がおかしいみたいな事を言われたりしてさ、本当にいい加減にしろ、と言いたくなる。 ここを徹底的に吐き出した方がよさそうだな、私。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
Last updated
2012.10.10 20:19:05
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