カテゴリ:自由への道
わたしは罪悪感を捨てる。
自分に向けられたあらゆる判断から、そして他者にこれまで向けたかもしれないあらゆる判断からも、完全に解放されて自由になる。 すべてを許し、感情を鎮め、人生をありのままに受けとめる。 どんな障害物も、わたしが成長し心の平安を得るために必要な体験とみなす。 すべてが軽やかだ。 光のメッセージカードより 今はまた、人生の棚卸の時期なのかもです。 まぁはっきりとした、節目節目!みたいなもんじゃなくて、何か一つのことに取り組んでるときは、いつでも立体的で多義的な意義や意味があるもんですよね。 自分と向き合うことが一生続くなら、棚卸もまた何度もすることになる。 私は今まで、自分自身の暗い?ことはブログでは書きたくないし、あまり書いてこなかったように思う。(多分・・・) 今は、自分のことを書くと、どうしても親のことが出てきてしまうし、それは決してかっこいい出方じゃぁない。 けれど、別に意図的にではないのだけれど、自然に指が動いちゃってる。 「別に、もういいでしょ」って思う。 人目を気にする私の頭の中の親(IP:インナーペアレンツ)のいいなりになるのもねぇ。 今まで散々そうしてきたしね。IPに好かれたくて、認められたくて、沢山の「あれも駄目・これも駄目」に縛られてきたわけだし。 だからもちろん「絶対的に正しい親」に対する批判や文句(や、こっちにしてみたら批判や文句じゃあないんですけどねぇ)に繋がったり、それらしい匂いのする類はタブーなわけですよ 親も自分のIPにがんじがらめになっているから、思いっきり「他人様からの評価」を気にしてますからね。それを我が子のしたことで、他人の目が自分に向いたら・・・そして、して欲しくない評価をされたら・・・それが、我が子の言動がそれを誘発したのだとしたら!!まさに「飼い犬に手を噛まれた」ってもんでしょうねぇ。 それに、自分のしていることが表にでて、外の世界は広いですからね、実は自分が「子供の自律の芽を摘んでいる」なんてことばれちゃあこまるわけですよ。 子供は無意識だけどそれを知ってるし、親が好きだしね、嫌われたくないし、怒られたら怖いし、もう密室に閉じ込められているような閉塞感です。 それにねぇ、変だと思っていた自分が実は変じゃなくて、親が「変」なんだってってことに気がついたりしたら、それを認めちゃったら、「親から認めてもらえる可能性」が消えちゃうでしょう。 だって、自分が「悪い、変なんだ」って思っている間は「自分がこうすれば、自分がああすれば、自分がもっと努力すれば、自分が変われば」って思えますからね。 でも、実は自分がどうであろうが、相手は変わらないわけですよ。そもそも相手なんて変えようがないわけで。でもそれを認めたら・・・という悪循環スパイラルと、認めたら完全に一人ぼっちになっちゃう!それだけは嫌だ!!!という存在不安の後押しもアリ・・・まぁ、大変なもんです^^; だから、何を書くにも何をするにも、無意識だけど「IPの検閲」が入るわけですよ。 もちろん、それを自分が受け入れてますしね。 するとね、もう、IPの視線を気にしたものしか書けないわけです^^; 当然、本当の気持ちなんかでるわけないです。特に、こういった人が見る可能性が高いブログなんかにはね。 ですから、日記って自分の気持ちと向き合うのにすごく良いツールですけど、ブログは不向きだと個人的には思います。(特に最初の段階ではね) 私は今こうして書いているのは、向き合うというよりは(結果としてそうなっているとしても)自分が見捨ててきた自分、闇に閉じ込めてきた自分、恥ずかしいみっともない、褒めることなんか一つもないと切り捨ててきた自分を明るい所に出して、抱きしめて、受け止めて、沢山褒めてあげたいからかなぁ。 「おまえは、恥ずかしい子でも、みっともない子でもないよ」 長い間・・・開いてない箪笥があって、開けてみたら懐かしいものや、古いものが沢山あって・・・そのなかには、これはもう「役割を終えてもういらないよね」っていうものを「沢山役にたってくれて、ありがとうね、御苦労さまでした」って言いたいな。 そして、ありがとうございました、って感謝しながら手放すの。 手放されたものは、大地や天に還ってゆくのさ。 それで、また新しい豊かさとなって、私に巡ってくる。 私はそれを、笑って受け取る。 そうやって循環していくのね、きっと。 ありがとうございます 愛しています 千夏 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
Last updated
July 15, 2010 12:35:36 PM
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