カテゴリ:地震体験
地震からしばらくたって、携帯が使えるようになった頃
夫は知人に無事を確認するメールを送っていたようで 返事が入るようになりました。 その中に壮絶な体験記が送られてきました。 以下、御本人に確認済みでそのまま転記します。 私は地震時、仙台市若林区の海岸添いにおりました。 300人ほどが津波に飲み込まれてしまった荒浜です。 地震時、建物はギシギシと大きな音を立てて揺れ、 立っていた地面は目の前でひび割れ、何度も大きなゆれが来ました。 すぐ大津波警報が出て車で内陸に向いましたが、 信号がとまり、地面はひび割れ、海岸から一番近い小学校に車をとめました。 少しでも出発が遅かったり、徒歩で逃げようとしたら 私は津波に呑み込まれていました。 車から降りたとたん頭上のヘリコプターから 「津波がそこまできています!早く高いところに非難してください!!」 と放送を聞いて走って学校校舎に昇りました。 逃げあう人で殺到し、入れた校舎も中は崩れかけていました。 それでも最上階の4階へと避難し、激しい揺れと寒さと恐怖の中、 手の震えは止まりませんでした。 車は流されることを覚悟し、自分も死を覚悟しました。 私が非難した箇所の1つ前の信号まで津波に飲み込まれました。 その後避難場所の体育館で救援物質も届かないまま、 真っ暗で寒さと恐ろしさで震えながら朝をまちました。 強い余震が20分に一度の割合でおこり、 悲鳴が起こるなかジッと息をひそめました。 一晩中、津波に飲み込まれ救援された人が運ばれてきました。 暗闇で泣きながら誰かを探す声が常に聞こえてました。 朝になり、飲まず食わずのまま30キロ先の自宅に帰れなくてはと 歩き初め、8時間かけて自宅のある塩竃へ向いました。 その間ずぶ濡れの人、怪我をした人にあい、 宮城の惨劇を目の辺りにしました。 主要道路であった場所に車や建物が無惨な姿で重ね合ってます。 逃げようとした車が渋滞し、そのまま津波に呑み込まれたようです。 逃げ遅れた人もいて、救助活動が続いていました。 地震発生から約12時間後の時、他県からの消防車や救急車、 救助ヘリが目立ちました。 すぐにこちらへ向かって助けに駆け付けていただけたのかと思うと、 涙がとまりません。 宮城の町は14時46分で止まっております。 荷物を残し逃げるためにドアを開けたまま潰れている車、 飲食店は食べかけのまま放置され、 流されてきた子供の靴などなど…見るに見れません。 私は歩き続け、なんとか暗闇になるまえに 知っている道にでようと必死で歩きました。 暗くなる前に家につき親と再会できました!! 私が奇跡的に助かった同じ時間、飼い猫が死んだようです。 私の変わりになってくれたのかな?! そんなわけで、ただいま私は宮城塩竃市で被災者生活しております(^O^)/ とにかく命があって、家族にあえただけでとても幸せ者だと感謝しております! 親戚や友人と連絡とれない人もおります。どうか無事でありますように… 水・電気・ガス・圏外・食料不足というライフラインがないけれど 奇跡的に助かったこの命で、少しでも皆の助けになれるよう 行動したいと思います! アタシ頑張ります(。・ω・。) お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
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