ボタ山のあるぼくの町
かつての炭鉱町の風景と人の輪が、最近、何かとメディアを賑わせている。大ベストセラーとなり、先日、テレビドラマにもなったリリーフランキーさんの「東京タワー」でも、彼が育った筑豊の町が、大らかで面倒見のよい筑豊のおかんが印象的に描かれていたし、映画「フラガール」では福島の常磐炭坑で、ハワイアンダンスに活路を求める人々の陽気さがうつしだされていた。つい最近の地元紙では、数週間にわたって、筑豊出身の歌手井上陽水さんの特集が組まれていて、あの誰にも真似できない独特の歌の世界の根底には、まぎれもなく炭鉱町で見たもの感じたことが折り重なって流れていたことを、あらためて知った。私が生まれ育った筑豊の町には、昔は賑わっていたという話を聞くばかりで、まわりを見渡せば農地でも工業地でもないただの空き地が点々と広がる故郷。シャッターがしまったままの商店。なにやらよくわからないけど、煉瓦やコンクリートでかたどられた要塞のような廃屋。遊び場には本当に困らなかった。雑草をかきわけ、倒れかかった立ち入り禁止の看板や、さびついた有刺鉄線をくぐりぬけて、探検ごっこにあけくれた。特に、自宅の向かい側の空き地にあった不思議な建物のことは今でもよく覚えている。コンクリート造りの巨大なじょうごが地面につきたてられるようにして建っていた。ひび割れたコンクリートの隙間にツタが育ち、そのつるを頼りによじのぼって中に入り秘密基地にしていた。緩やかな傾斜に背をもたれ、両足でつっぱって座る。そこから見上げる青空は、真四角灰色コンクリート製のフレーム付。最高の、青空ギャラリーだった。あとから聞いたことだが、この建物こそまさに炭坑の遺物。選炭場として使われていた通称ポケットというもので当時で閉山から10数年たっていたはずだから、老朽化もすすんでいたはずである。親もまさかそこに入って遊んでいたとは知らなかったらしくもし崩壊したなら…といまさらながら青ざめていた。真っ黒い顔にヘッドランプの坑夫のおじさんなど、もちろんどこにもいないし、ハモニカ長屋といわれた炭住街も、当時は行くところにいけば少しは残っていたらしいが、見たことはない。そのかわり、遊びに行く友達の家はなぜかほとんどが、団地だった。今思えば、炭住の面影をのこす、いわゆる改良住宅であったのだろう。隣の家がやたらに近く、昼間から酒を飲んで、家の入り口に座りこみブツブツ言っているおじさんもよくみかけた。華やかさはどこにもなかったが、それなりに、わいわいと面白かった。誰もが自分の育った風景が、親しく愛おしいものであるように私もまた、故郷の歴史など知る由もなく、ただただ、そんな情景とともにある人々の顔に、心を和ませていた。いつしか、私のお気に入りの基地は取り壊された。自宅の前だったというのに、いつ頃にただの草ぼうぼうの更地と成り果てたのかも思い出せない。人間の記憶って、本当に頼りないものだ。せめて写真の一枚でも残っていればと思うが、そんなものはなにひとつなく、あの青空ギャラリーは私の頭の中だけにぼんやりと残っている。テレビの仕事をし始めて、少しずつ、自分の生まれ育った筑豊の歴史に興味を持ちはじめた。「石炭を掘る」という命がけの労働のもとに育まれたもの。繁栄と搾取と貧困と、そして連帯。人々の輪。炭坑の記録作家、故上野英信氏の想いを自分なりに勉強させてもらいその人と仕事をまとめたドキュメンタリーの制作に関わってから早8年がすぎたが、今だに、やっぱり気になる。きっと年を重ねるにつれ、ますます気になるものになっていく気がする。自分の生まれ育った場所のこと。当時、坑夫として働きながら、好きなカメラで、仲間たちや愛するヤマの暮らしを撮り続けた山口勲さんの初めての写真集「ボタ山のあるぼくの町」がこのほど海鳥社より出た。山口さんがうつした風景はどれもこれも温かい。まさに私の父母や祖父母たちがそこにうつっているような気がする。きのう地元で開かれた、出版を祝う会には、山口さんと一緒に働いた坑夫仲間たちも40年ぶりに集まり、おおいに盛り上がっていた。命がけの労働を共にした人たちが、一緒に笑い、歌う姿に胸があつくなった。なんと発売から半年で初刷を完売しているこの写真集。懐古趣味に終わらない何かがつまっっている。いま、生きていることが素晴らしいと思える何か。「ボタ山のあるぼくの町」山口勲 海鳥社結局はこれが言いたかったのだけど、私にとっての炭鉱の思い出をつらつら書いてみた。