合図
あれは小学三、四年の頃だったと思う。人は死んだらどこにいって、どうなってしまうのだろうと、ふと不思議になって、父に尋ねてみたことがある。「お父さん、死んだらどこにいくのかな」父は笑いながら「さあねぇ、お父さんも死んでみたことがないから、わからんねぇ」と目を丸くした。「死んでしまったら姿はなくなるけど、心はどこにいくんやろう。生きてる人たちが空から見えるのかな。話をしてるのが聞こえるのかなぁ。不思議やねぇわからんねぇ」私が小さな頭でいつまでも必死に考えていると、父がこんなことを言い出した。「よし!いつか、お父さんが死んだら、どうにかしてそれを教えてあげようね姿はなくなるだろうけど、どうにかして美香に合図を送る努力をしてみよう。お父さんはここだよってね。でも、もし、いつまでたっても合図を感じなかったら…そのときは、死んでしまったらもう何もできない。無になるっていうことかもしれんね」父が死ぬという実感がまったくなかったゆえの無邪気さで私は「それはいいねぇ!絶対合図してね、約束よ!」と興奮気味にこたえ、あたかもこれで全て解決したかのように、すっきりと考えるのをやめた。遠い昔のただ一度きりの約束。ずっと覚えていた。父は覚えていただろうか。死期が迫っているのかもしれない病床の父とは、どうしてもそんな思い出話は出来なかった。いよいよ昏睡状態に陥り、握りしめていた手に力がなくなっていくのを感じたときになって初めて、私は心の中で叫んだ。「お父さん、必ず合図を送ってね、ずっとそばにいて見守っていてね」父は本当に死んでしまい、体もなくし骨だけになってしまった。優しかった父の心はどこにいったのだろう。ずっとずっと毎日、合図を待っている。