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カテゴリ:筑豊さんぽ道(朝日新聞連載記事)
短大卒業を目前にした1993年、20歳の春、周囲の友人は銀行やメーカー、憧れの航空業界などに内定していった。私は具体的にイメージできず、迷うばかりだった。 ところが、通っていたアナウンス講座の先生が受験を薦めてくれた佐賀県唯一の民放テレビ局のニュースキャスターのオーディションに奇跡的に受かった。 * 佐賀とは縁もゆかりもなかった筑豊の田舎娘が120倍の競争率をくぐり抜けてしまった。当時の佐賀県は49市町村、人口約88万人。親戚や知り合いもおらず、筑豊から見る佐賀ははるか遠い場所だった。 吉野ケ里遺跡、嬉野温泉……。試験を受けるにあたり、ざっくりと自分なりに予習したつもりだった。だが、カメラテストで渡された原稿にぼうぜんとした。 佐賀県民にとっては常識であろう人間国宝の今泉今右衛門さんが新年の恒例行事として初窯出しをしたという内容だった。しかし、いくら読んでもその光景が浮かばない。しかも今右衛門をどう読むべきかわからず、焦った。 どうにでもなれと腹を決め、はにかんだ笑顔を添えながらも、堂々と「こんえもん」さんと読み上げた。国の宝がなんとも可愛い響きになってしまったから、審査員一同、笑いをこらえるのが大変だったそうだ。受験者のうち、そう読んだのは私だけだったという。 「こんえもんの青木」とすっかり印象に残ってしまったらしい。なぜ私を選んでくださったのか。それは佐賀のことを何も知らなかったから。何の予備知識もないからこそ、新鮮な驚きと好奇心でニュースを伝えてもらいたい。そんな寛大な判断のおかげで、私は初めての社会人生活を佐賀でスタートすることになった。 * 実はこの選考の際、当時の報道部長から連絡があった。「3人の候補者に絞っている。最後はそれぞれの生まれ育った町に行って決めたい」と言われた。 今思えば、かなり珍しい申し出だが、実際に佐賀から父と変わらない年代くらいの報道部長が福岡に現れ、天神から田川行きの高速バスに乗ったのだ。 川崎町の飲食店で両親と合流すると、父と部長は同年齢で、互いの名前に「政」がついていて意気投合した。父のいつもの癖で酒杯が進んで話が弾んだ。最後には部長が「佐賀では自分が父親代わりとして見守ります」と宣言。その場で採用が決まり、なぜか両人が涙目で握手を交わした。 人情厚い筑豊の舞台がそうさせたのだろうか。うそのような本当の話だ。がばいばあちゃんが有名になるずっと前、粗野な筑豊弁しか知らない私の失敗を「よかさ、よかさ」と許してくれる佐賀弁はとても優しかった。 当時は新しい環境になじむのに精いっぱいで、筑豊のことを思い出すことはほとんどなかった。だが見知らぬ土地でも、それぞれに故郷を思い、歴史や風土を大切にする人々の存在が常に身近にあった。外から来た人間だからこそ見えることがあると、思いを新たにした佐賀時代だった。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
最終更新日
2015年11月17日 11時34分26秒
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