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カテゴリ:筑豊さんぽ道(朝日新聞連載記事)
社会人一年生。世の中のことを何も知らないまま、20歳でテレビのニュースキャスターになった。よくもまあ恥ずかしげもなくと、あらためて顔から火が出る思いがする。何しろ未知の世界が新鮮で、好奇心だけを頼りに突き進んだ。笑顔だけが取りえだと言われ、ほとんどが佐賀県人だった職場の人々の温情で成り立っていたように思う。 * ありがたいことに、無知な私のために「故郷に生きる~青木美香の佐賀見聞録」と題し、週に1度、佐賀の町村を巡り、そこで活躍する人を訪ねてリポートするというコーナーまで授かった。2年間の勤務で当時42の全町村を回り、たくさんの出会いを頂き、佐賀弁に親しんだ。 初めての取材先は緑濃い山あいの里、富士町(現佐賀市)にただ一軒だけのパン屋さんだった。大型ダム建設でまもなく移転せねばならず、愛着のある風景を失う名残惜しさと仕事への思いを、パンをこねながら語ってもらった。 テレビカメラを意識せずに、いかに自然な所作や対話ができるかと苦心した初リポートは思い出深い。その後も時々、初心を確かめに会いに行った。 偶然にも故郷川崎町は、年に一度、たくさんのパン屋さんが集う「パン博(ぱく)」で知られるようになり、今年は5月24日に開かれる。私の仕事の出発点でもある「たなかのパン」もパン博に出て下さることになった。20年越しの新たなつながりが生まれそうだ。 * 1995年春からは、福岡市に本社があるKBC九州朝日放送報道部の記者として、引き続き毎日のニュース番組の制作にかかわった。福岡ではあちこちで突発的に起こる事件事故、災害などの対応も含め、現場の雰囲気は以前にも増して慌ただしかった。 契約記者の私は「遊軍」と呼ばれ、特定の記者クラブには所属せず、何かあればどこにでも補助にまわれるように備えていなければならない。連日、デスクからの指示であちこちで取材をし、原稿を書く。必要に応じてインタビューや現場リポートをしながら、その日のニュース番組を作っていく。 一方で、記者クラブでの日々の仕事に縛られない分、独自企画も積極的に出すよう求められた。佐賀ではひたすら、がむしゃらだったが、ここで、私ならではの仕事をしなければと思う時、意識の先に「筑豊」があった。 いつしか、自分が生まれ育った町の今昔に詳しくありたいと、興味をひく新聞記事などでスクラップ帳を作るようになった。日々の取材でも話題ごとに名刺を貼り付け、伺った話や参考資料、ニュースの構成などあれこれと書きつけた独自のノート作りに重点を置いた。ノートの束はいまだに一冊たりとも捨てることができない宝物だ。 知らなかったことを知るということはなんと楽しいことか。出会えた人との縁もいつまでも、つなぎとめたい。ノートを広げるといまだにわくわくし、話の続きが気になって仕方がない。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
最終更新日
2015年11月17日 11時34分53秒
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