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語りと筆しごと~書家香玉のうずまき帖

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2015年11月17日
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福岡市で報道の仕事に携わり始めて、それまではほとんど意識することのなかった自分の故郷を強烈に意識し始めることとなった。

 初の社会人生活を送った佐賀県では「福岡の人」と言われた私だが、福岡では「筑豊の人」という印象を持たれることが多かった。

 「筑豊?田川?そりゃあ恐ろしいところから来たね」。筑豊地区で発生する暴力事件などのニュースが出るたび、「ほら、またお前のところ」と笑われた。そんな風に言われ続け、だんだん悲しく、怒りがわいてきて、トイレで悔し泣きすることもあった。

     *

 「炭鉱」で賑(にぎ)わった筑豊のことが無性に知りたくなり、悪く言われ、笑われる筑豊ではない情報を自然と探すようになった。1997年、大牟田の三井三池炭鉱の閉山を前に石炭の歴史を見直す特集が求められるようになり、炭鉱の歴史とともにあった故郷の情報を集め始めた。そうして知り得たのが上野英信という作家と、活動拠点「筑豊文庫」の存在だった。

 三池閉山の10年前に他界した上野氏の絶筆には「筑豊よ 日本を根底から変革するエネルギーのルツボであれ、火床であれ」という言葉が残されている。上野氏は2011年に日本初の世界記憶遺産に認定された炭坑絵師、山本作兵衛翁の偉業をいち早く評価し、世に紹介しようと尽力した人としても知られている。

 寂れたイメージしか持てなかった筑豊が、かつては全国からたくさんの人を集め、国の原動力を作り出すエネルギッシュな場所であったことを思い知った。鞍手町にあった上野氏の自宅兼仕事場の筑豊文庫には地元の労働者をはじめ、全国各地から多様な文化人、メディア関係者が集い、盛んに交流が行われたという。

     *

 筑豊文庫を原点として今でも方々で活躍する人が数多くいることも知った。前の職場で佐賀の歴史を学んだ時、明治維新の頃、近代日本の幕開けとともにその名をはせた数々の偉人の存在に驚愕(きょうがく)した。筑豊もまた近代日本の発展に貢献した人々が集い、多彩な文化を生んだ土地であることを、我が故郷ながら初めて意識したのだった。

 火床ならば、今もじわじわと燃えていなければいけない。火床から飛び散った火の粉は行く先々でまた新たなエネルギーを作り出さなければ。先人があれだけ頑張ったというのに、今では「怖いところ」「寂しいところ」で終わってしまうとはなんと悲しいことだろう。知らないということはなんと罪なことだろう。

 そう思っていた矢先の98年、運命的な仕事に巡り合った。上野氏を生涯にわたって支え続けた妻の晴子さんが、夫の死後10年を経て亡くなる直前に書き残した手記「キジバトの記」が出版されたのだ。

 かつて筑豊文庫に集い、上野夫妻に大変な世話になったという上司から、その本を基にしたドキュメンタリー番組を作れという指令が出た。筑豊出身というだけで駆け出し記者の私に白羽の矢が立ったのだった。





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最終更新日  2015年11月17日 11時35分25秒
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