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カテゴリ:筑豊さんぽ道(朝日新聞連載記事)
KBC九州朝日放送で報道記者となり3年目の春、初めてディレクターを務めた1時間のドキュメンタリー番組「キジバトの記~記録作家 上野英信の光跡」が完成した。 炭鉱の記録文学者だった上野氏の名は新聞などで見かけ、記事も切り抜いてはいた。ただ、筑豊出身というだけで番組化を命じられた25歳には荷が重すぎる仕事で、忘れ難い経験だ。 17年も前のことになるが、今も当時のことを鮮明に思い出す。その仕事で得た学びと人とのつながりがいまだに心の支えだ。 * 写真家、映画監督として活躍する本橋成一さんを東京に訪ねたのも、この取材がきっかけだった。上野氏に出会い、「どこに軸足を置くか」などを無言のうちに教えられたという。 本橋さんの初めての写真集「炭鉱(ヤマ)」は今年、地元の海鳥社から50年ぶりに新装版で発刊された。東京に生まれ育った本橋さんが「原点」という筑豊の話が聞きたくて、いまだに私は本橋さんにつきまとっている。 「キジバトの記」とは、上野氏の妻が書き残したエッセー集のタイトルだ。かつて上野夫妻と親交のあった人々の間では「大変な衝撃作」と話題になった。 作家として自己に厳しく、他人には優しく、徹底した仕事ぶりで多くの支持者を得ていた上野氏。しかし、夫としての姿は亭主関白ぶりが際だっていた。妻の目から見た知られざる一面がこの一冊によって明らかになった。 私の上司も、その辺りのことを核に作るようにと目を輝かせた。だが、当時の私には、筑豊にこんな求心力を持ったすごい人がいたということが驚異だった。奥様の言葉を糸口に、人を引きつけてやまなかった上野氏の仕事を改めて見直したい。「どうかその切り口でお願いします」と生意気にも上司にかけあった。 * 上野夫妻のご子息、朱さん(当時41歳)と初めて電話でお話しした際の緊張は今でも覚えている。同じ筑豊育ちだが、私が知る男性の誰よりもスマートで丁寧な言葉を使われた。 一人息子として母を支え、仕事に燃えた父をそばで見てきた朱さんの思いは計り知れない。恐縮しつつ、私なりの感動を素直に伝えると「いろんな見方があっていいと思いますよ」と理解を示して下さった。古い写真の探索や取材で会うべき人の紹介など、常にユーモアを交えながらも的確な導きで、今も変わらず私の心の師である。 番組は結局、上野夫妻を取り巻く人々の証言集となった。「筑豊から来た」というだけで皆さんが一様に笑顔となり、懐かしそうに心を開いて下さるのがうれしかった。 「僕らは筑豊文庫がまいた種」と語ってくれたのはバングラデシュのヒ素汚染の実態を追って上野氏と同じ記録作家の道を歩んだ川原一之さんだった。筑豊から飛び立った種は今も確実にあちこちで実りをもたらしている。過去を見つめ直す活動は回想録に終わるのではなく、視点は未来へとつながるものでありたい。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
最終更新日
2015年11月17日 11時35分46秒
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