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カテゴリ:映画をめぐる冒険
岩井俊二(1963~)
現代日本映画を代表する映画作家の一人。 ミュージックビデオからスタートし、 作品には『Love letter』『undo』『スワロ ウテイル』『花とアリス』など。 叙情的な映像美とノスタルジックな重層感 に定評がある。 ―――ところで、祝祭男さんは、自分を未来型、過去型、と分けてみようとすると、どっちになるんでしょうか? 祝祭男】 どうでしょうね。 まあ、懐古趣味にどっぷり浸かるっていうようなことはないですけれど、 明日のことは明日のこと、って思ってますし、よく判らないですよね。 ただ、風邪で寝込んだりして、気力体力ともに消耗しきっている時なんかは、 子どもの頃のことを思い出したりしますよね。 ―――ああ、そういうことってありますよね。 祝祭男】 で、まあそういう頃のことは、割といい思い出として記憶が甦ります。 以前テレビで盲目の三味線弾きのおじさんが、こんなことを言ってたんですね。 「人間いつまでも忘れないのは辛い思い出だけだ」という風な。 それで、あ!っていうかね、うん、それはそうなのかも知れないぞ、 ってちょっと思ったんです。 よくまあ、「みんないい思い出になる」って言いますし、 私自身は割とそうかなって感じてたんですけれど、 それはひょっとしたら嘘かもな、って思ったりして。 ―――確かに辛い記憶が、みんないい思い出になるわけないですよね。 祝祭男】 で、どっちをよく思い出すかってことは個々人のメンタリティによると思うんですけれど、 こう、漠然とした「幸福な期間」という感覚について考えると、 私としてはなぜだか、岩井俊二の作品を連想するんですよね。 ―――ああ、あの淡い恋情のような映像ですね 祝祭男】 例えば実際は十代の頃なんて嫌なことばかりでしたし、 焦燥の中で鬱々としていることが多かったと思うんですけれど、 それを差し置いてですね、ある時期、16から17歳頃に掛けての時間だけは「幸福な期間」として突出した記憶になっている。 ―――恋愛とか、そういう関係ですかね 祝祭男】 もちろん、そういうこともあったんでしょうが、 そういうことよりも、なんとなく「世界とうまく調和している」というか、 「世界の中に抱きすくめられている」という感覚が持てたんですね。 で、例えば岩井俊二の『ifもしも 打ち上げ花火、下から見るか?横から見るか?』とか『ラブレター』とかね、 ああいうセンチメンタルでリリカルな話のように、 自転車のペダルを漕ぐ一動作までが世界と調和している、幸福である、 という感覚が持てたわけです。 ―――詩的で可憐、そして少女漫画的である、なんて指摘もありますよね 祝祭男】 そうですね。 たとえば子どもの頃、夏休みどこかの街路を歩いている、 とか茂みの中に意味もなく立っている、とかそういう記憶自体を『子ども時間』と呼んでみると、『Picnic』の中にはそういう感覚――あれは精神病院みたいなところから塀伝いの冒険に出る、というような展開でしたが――やっぱり『子ども時間』が濃厚に感じられる。 ―――『花とアリス』に関しては、私もすごく好きです。 祝祭男】 『リリィ・シュシュのすべて』になると、淡い痛みどころではないんですけれども、涙が出るくらいに美しくもある。 ただ、今日は過去を追懐する、というような話から岩井俊二の話を出しましたけれど、彼の作品の中に流れている時間軸のようなものも、 我々だって失ってしまったわけではないんですね。 しっかりとそれは続いている。でも、具体的に岩井映画を見るとか、 そういうことをしてみないと、その時間軸を掘り起こせなくなっているところはありますよね。 ―――そうですね。 祝祭男】 その感覚は、あるいは「中心感覚」と呼んでみてもいいかも知れないですね。あくまで幻想でしかないのかも知れないけれど、 岩井俊二の映画の中でだったら、東京なんかじゃなくて、 どんな地方都市でも生きられる、というような勝手な空想ができてしまう。 ―――いやいや、私は東京がいいなあ 祝祭男】 まあ、それはともかく、一番最初の質問に戻ってみると、 どちらかといえば「過去型」寄りであるかも知れませんよね。 ―――う~ん、なるほど。今夜は岩井俊二、見てみます。 それではまた! 聞き手 祝祭男の恋人 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
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