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祝祭男の恋人

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 車の窓越しに見える空は夕焼けている。空は別人の顔のように急速に色褪せていく。あと十分、いや五分で闇が落ちてくる。光が翳る。風が存在感を増す。駐車場を歩いている少年たちの顔が、見分けの付かないお面を被っているように見える。草の匂いがする。タイヤがアスファルトをこする音がする。それは通り雨の音に似ている。何もかもが、この小さな街の夜だ。ここにあるすべてが、この小さな街に属している。ここだけで始まって、ここだけで終わる。彼はポケットから煙草を取り出そうとする。そして、さっきより手元が暗くなっていることに気づく。


 彼女は従業員用の女性更衣室でもたもたしている。上半身はブラジャーを着けただけの格好でソファーに腰掛けている。タイムカードの横に置いてある小型テレビは野球中継を映している。試合はまだ始まったばかりだ。0対0。それから、店の外の駐車場で自分を待っている男のことを考える。彼女は立ち上がって自分のロッカーを開く。鏡に映っている顔を見る。汗で少し化粧が崩れている。でも、そんなに悪くない。たぶん彼も、そんなに悪くない、と言うだろう、と彼女は思う。うん、確かに悪くない。彼女はにっこり笑い顔を作ってみる。うっすらと頬に縦皺ができる。それでも感じは悪くない。俺だけ十年歳をとったのかな、と彼は言うかも知れない。彼女はハンガーから水色のブラウスを外し、袖を通す。そして従業員用のズボンを脱いでスカートを手に取る。そこに同僚の岡田さんが入ってくる。岡田さんはソファーに座って煙草に火をつける。そして、着替え中の彼女を見ながら言う。
「七時までいるんだったら、店長がボーリングに行かないかって言ってるんだけど」
 彼女は急いでスカートに足を通して、ブラウスのボタンを留めながら「今日はやめとく」と答える。
「あらそう、残念ね」と岡田さんは言う。彼女はサンダルに履き替え、簡単に化粧を直す。
「あら」と鏡の中の彼女を見て岡田さんが言う。「ねえ、やっぱりここの制服ってセンス悪いと思わない?」


 空の片隅に赤い光の層が踏みとどまっている。誰かの夏物のドレスの裾が扉の外にさっと引き抜かれて行くみたいに、いま、消えようとしている。

 彼女は助手席の扉に手を掛ける。
「すごく奇麗だ」
 彼女を一目見て彼は言う。本当に。息を飲んだような顔で言う。
「あなたも」と彼女は言う。「何て言うのかな、ちっとも変わらないわよ」
「そう、変わらない」と彼はゆっくりとハンドルを切りながら、左右を確認する。フォーエヴァーヤング、と彼は言う。そして彼女の方を見る。でも、そこに得体の知れない距離があるのを彼は感じる。さっきまで何にもなかった場所に、ぱっと迷路が出現する。手品かなにかみたいに。扉の隙間から一枚の地図が差し込まれる。でもそれは迷路だ。あるいはそんな映画の一コマみたいに。
「どこに行こうか?」と彼は訊く。「昔、川が流れていなかったっけ?」
「どこへでも」と彼女は答える。とても優しく、「あなたの望み通りに」と言う。
「オーケー」と彼は交差点をUターンする。「川へ行こう。そうだ。そこでビールを飲むのが俺の望みなんだ」

 車は競技場の前まで戻ってくる。そこには小さな橋が架かっている。
「来るときには気づかなかったよ」と彼は言う。「明るかったからかな?」
 そこには幅は広くないけれど、ちゃんとした川が流れている。彼の見覚えのある川だ。
「おかしいな、俺はこの橋をさっき通ったんだぜ」
「その時には流れていなかったのかもよ」と彼を励ますように彼女は言う。でもその言葉は彼の耳にはこう聞こえる。「それでも川はちゃんと流れていたのよ」と。そうだ、川は流れていたのだ、と彼は思う。でも俺はそれを見落としたに違いない。

 彼はハンドルを切って競技場の横の道へ入っていく。川に沿ってゆっくりと進んでいく。川べりにはライトを消した車が何台か止まっている。薄暗い車内にははっきりと人の気配がする。彼はライトの光量を落とす。二つの橋を通り過ぎる。暗く青々とした桜の葉が生い茂り、川の両岸からもったりとした枝を差し延べている。土手のどこかから、ぼんやりとした照明が川を照らしている。
「ここから降りようじゃないか」と彼は車を止める。

 二人は柵を乗り越えて土手を降りて行く。そして川の流れている、すれすれの場所に来る。
「なんだかひんやりするわね」と彼女は言う。彼女は彼の二の腕をつかんでいる。
「よし、じゃあひとつ車から毛布を持ってくるとしよう」と彼は言う。「暖かくしてビールを飲もう」
 彼女は彼を待っている。彼が草を踏んで降りてくる。薄暗いせいでよく顔が見えない。でも、彼の眼の底が光っているのが分かる。
「これでよしと」彼は彼女の肩に毛布を掛けて座らせる。
「ねえ、ほら、冷たいわよこの川」と彼女は裸足の足先を水に付ける。
「じゃあ、こうするんだ」彼はビニール袋に入ったビールを川に沈める。
「これはいい思いつきだぜ」と彼は言う。「君を誘い出して、川でビールを飲むんだ」
「そうね、思いも付かなかったわ」と彼女は言う。
 しばらくして彼は言う。「なあ、知ってる?俺は三日前からスーパーにいたよ」
「どうしたの?」と彼女は声を掛ける。「あなたなにか緊張してるんじゃない?」
 彼女はそっと彼の髪の毛を撫でる。彼はビールを引き揚げて、栓を抜く。そして二人はビールを飲む。

 あとで彼女は言う。
「知ってたわよ」でも、彼女はそのとき感じたことを黙っている。それはとても不合理な感情なのだ。言うなれば、それはある種のうっとうしさに似ている。雨に濡れ、べっとりとまとわりつく髪の毛のような。

 彼は飲み干したビールを舗装されたコンクリートの端に並べていく。そして煙草を取り出してくわえる。ライターの火がまんべんなく煙草の切り口を焼いていくのを眺めながら彼は言う。
「で、どんな具合だったのかな?」彼女が彼を見る。「何というか、つまり、ざっくばらんに言ってみて、この五年は、ということなんだけどさ」
「そうね」と彼女は少し考え始める。でも、すぐにきっぱりとこう言う。「なかなか悪くなかったと思う」
「うん」と彼は黙る。そしてしばらくしてから「きっとそうなんじゃないかと俺は思ってたんだ」と言う。
「もちろんすべてが思い通りにいったわけじゃないけど、少なくともじょじょに物事が良い方向に向かって進んでいるって感じがするの」
「そういう感覚は大事だと思う」
「あなたは?」
「うまくいってるよ」と彼は即座に答える。まるでぐずぐずしていると何もかもが台無しになってしまうとでもいうように。
「ねえ」と彼女は言う。彼は黙って川の流れを見ている。川は吸い込まれるように黒く、そしてかすかに光っている。彼はもうどんな言葉も必要としていないように彼女には見える。でも、彼女は話し始める。


「夢の中でね、私はスーパーのもの凄く大きな棚一杯に商品を並べていくの」と彼女は言う。
「夢?」と彼は聞く。
「そう、これは私の夢の話」と彼女は答える。「一人になってから私は同じ夢を何度も見たの」そして毛布にくるまるように膝を抱える。
「その中で私は店の棚の隅から隅まで、キュウリだとかニンジンだとか、ジャムの瓶とかコショウとかありとあらゆるものを並べていくの」彼女は彼を見る。ちゃんと聞いているかどうか確かめるために。彼は、ちゃんと聞いているよ、と頷いてみせる。川はかすかに水音を立てて流れている。
「でね、なんでそんなことしなきゃいけないかと言うとね」と彼女は言う。「それは私がその店のどこかに、自分の一番手放したくないものを置かなきゃいけないからなの。自分がそれを手放すなんてとてもじゃないけど考えつかないようなものをね、なんでか知らないけどスーパーに並べなくちゃいけないのよ」
「それはまた」と彼は言う。
「そう」と彼女はそこでしばらく考える。「だからね、どこか見つからない場所を作るために、たくさんいろんなものを並べるの」

 彼女は言う。あれこれ悩んだあげく、彼女はそれを一番奥の棚の、更に一番上に置くことに決めるのだ、と。高いところは一番目に付きにくいのだ。彼女はそれを置く。すると向こうから一人、お客が歩いてくるのを彼女は見る。
「それはね、一目見ただけではらわたの煮えくりかえるような嫌な奴なの」と彼女は言う。
 彼は黙って新しいビールの栓を抜く。そしてソーダクラッカーの箱を開けて一枚囓る。
「直感的に解るの」と彼女は言う。「生理的にうけつけないの」彼女の目が夜の底でゆらゆらと光っているのを彼は見る。
「ああ、いやだ。お前だけはいやだ!私は心の中でそう叫ぶのよ」と彼女は身をすくめる。
「でもね――」と彼女は言う。
「でも?」
「その客は真っ直ぐその棚に歩いていって、ぽいってそれを自分のかごに入れてしまうの」
「うむ」と彼は唸る。
「でね」と彼女は言う。「自分で自分が信じられなくなっちゃうのよ。でしょ?考えてもみてよ、自分がそれを手放すなんて思いもしなかったものを、そんな簡単に喪っちゃうんだもん」
「一つ聞いてもいい?」と彼は言う。「で、その手放したくないものって一体何だったんだい?」
 彼女は笑いながら言う。
「それがね――」彼女は彼の目を探るように見る。





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Last updated  Apr 10, 2005 03:56:40 PM
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