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祝祭男の恋人

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 やがて、二人はビールをすっかり飲み干してしまう。彼女は毛布の中で小さく歯を鳴らし始める。そして二人は車に戻る。でも、エンジンを掛けずに黙り込んで座っている。
 しばらくして彼は言う。
「君に会いたかったんだ」

 毛布をどけて、彼は彼女の顔に手を触れようとする。ゆっくりと伸ばされた手が彼女の頬に触れる。そこまでにはとても長い時間が掛かる。彼は感じる。彼の掌に冷たい皮膚の感触が伝わってくる。彼女は黙って彼を見ている。でもそこには目に見えない何か大きな変化がある。そして彼の手に自分の手を重ねてゆっくりとこう言う。
「ねえ、どうしちゃったの、坊や」彼女は腕を伸ばして、そのまま彼の頭をすっぽりと抱きかかえてしまう。彼は彼女の胸に顔を埋めたまま身を委せる。そしてじっと動かなくなってしまう。そこにはどきっとするくらい、いい匂いがしている。しばらくして彼はもぞもぞと頭を動かす。彼女は彼の髪の毛を撫でている。繰り返し繰り返し。彼の髪の毛はプールで泳いだ後の塩素の臭いがする。
「この五年でどうしてそんなに弱虫になっちゃったのかしら」と彼女は言う。彼は顔をぎゅっと押しつけたまま、ゆっくりと深呼吸をする。
「いったい何があったっていうの、坊や」と彼女は半分子守歌でも歌うように言う。「ねえ、もう何もかも忘れちゃいなさいよ」
 土手の下からちゃぽんと何かが沈み込んでいくような音がする。彼はもう一度もぞもぞと頭を動かす。彼女の胸が少しだけ汗ばんでいるのが分かる。そこにはじかに彼女の肌の匂いがする。

 窓の外には夜がある。今は誰も川沿いの道を歩いてはいない。
「ねえ、いい?」と彼女は言う。「あと少しママの胸で一休みしたら、そんなつまんないことは全部忘れちゃうのよ」


 何もかもが元通りになったように見える。家まで送っていくよ、と彼は言う。彼女は暗闇の中で黙って胸のボタンを留めている。
「ありがとう、でも一人で帰れるわ」
「足元が暗いから、俺がライトで照らしてあげよう」と彼はエンジンを掛ける。
「大丈夫よ、そんなことしてくれなくって」と彼女は小さく笑う。
 彼女は扉を開けて、夜の中へ出ていく。 
 

 彼はしばらくそこに静かに座っている。でも、そこにはもう何の煌めきも残っていない。長い、長い夢を見ていたのだと彼は思う。ふいに夜のひやりとした感覚が体を抱きすくめる。暖流の中を泳いでいた魚がいきなりぴりっとした寒流に飲み込まれるみたいに。そう、物事の流れがどこかですっかりと変わってしまっている。彼はそれをはっきりと感じる。何かが俺を別の流れの中に押しやっちまったんだ、と彼は思う。そして俺は今日までそれに気が付かなかったんだ。


 彼は鍵を開けて部屋の中に入る。音を立てないように扉を閉め、真っ暗な廊下を歩いていく。父親はまだ起きている。電気のついていない曇りガラスの向こうに、明るいテレビ画面がぼんやりと透けて見える。
「まだ起きてたの?」と彼は言う。
「おかえり」と父親が振り返る。「もうそんな時間なのか?まあ、お母さんはもう寝たからな」
 時計は九時を少し過ぎた辺りを指している。これから本当の夜が始まる時間だ、父親はそう言って小さくウィンクする。
「何を見てるの?」
「さあな、わからん。映画だよ、アメリカのな。いまあいつが女房を銃で撃ったところだ」
 青白い光が父親の目に細かく反射している。
「まあ、座れよ。おまえもウィスキーソーダ飲むだろ?」と父親は自分のグラスを持って立ち上がる。「おまえの分も俺が作ってやろう。スコッチだ。冷蔵庫にはビールもあるぞ」
「同じやつでいいよ」と彼はソファーに腰を下ろす。チカチカとするテレビの光がテーブルの上にあるすべてのものに当たっている。
 氷を入れた二つのグラスに父親はスコッチを注いでいく。青白い闇の中で、ウィスキーは夜を溶かし込んだ水のように見える。
「そんなにいらないよ」なみなみとスコッチを注ぐ父親を見て、彼は言う。「もう飲んできたんだ」
「なに、大丈夫さ」と父親は二つのグラスにレモンソーダを少し足す。「これでお父さんと同じだ。おまえは俺より三十も若いんだ」
 彼は溢れそうになっているグラスを受け取る。
「さてと、じゃ、乾杯」

 テレビの中では、妻を撃った男が裁判に掛けられている。フィッシュチップスの袋に片手を突っ込みながら、父親はぐいぐいとウィスキーソーダを飲んでいる。そして、すっと彼の方に向き直る。
「で、今日はどんな一日だったい?」と父親はゆっくりと言う。「まあ、細かいところは抜きにして、大筋でさ」
「悪くないよ」と彼は答える。「近所の求人を見て、それからプールで泳いだ。そのあとちょっとドライブして、ビールを飲んだんだ」
「うん、悪くないな」
「瞑想クラブはどう?」今度は彼が訊く。
「みんな俺のレベルに追い付けないのさ、世間の人はまだまだ苦しんでるよ」
「ふうん」彼は煙草を取り出して火をつける。
「お父さんのグラスはもう空いたみたいだぞ」
「じゃあ僕も」と彼はグラスを一気に飲み干してしまう。
「そうこなくっちゃな」父親は氷を足して、スコッチを注いでいく。今度は自分のレモンソーダは心持ち多めに。「そう、おまえは俺より三十も若いんだもんな」

 彼は煙草を指に挟んで、そろりそろりとウィスキーソーダをすすっていく。テレビでは妻を撃った男が刑期を終えて刑務所から出てくる。
「友だちがスーパーのレジ打ちをして働いてるんだ」と彼は言う。
「そりゃあ結構」と父親はぐいぐいとグラスを傾ける。
「最初のとっかかりにそこでしばらく働いてみるっていう手もあるんだ」
 父親が彼の顔を見る。そして大きな掌を彼の頭の上に置く。何かを思い出すように暗い部屋の片隅を見上げながら言う。
「お父さんの頭の中身をそっくりおまえにやっちまいたいもんだと思うがな、そううまくはいかないもんなんだ」と父親はにっこり笑う。「でも一つだけ確かなことはだ。おまえは俺より三十も若いってことなのさ」
 網戸越しに、涼しい風が入ってくる。
「いい夜だな」と父親は言う。
 

 彼は、不思議な夜だな、と思う。

 ウィスキーソーダをすすりながら、彼はこう考え始めている。明日、もう一度あのスーパーに行くことだってできるんだ。そして彼女か店長に、そこで働かせてもらえるように頼んでみてもいい。そして彼はこうも思い始める。それから気が向いたら、妹の大学に代わりに出席してやろうじゃないか。そして、そのあと車で妹の病院に見舞いに行ってやってもいい。だって、まだ、ここに戻ってから一度もあいつの顔を見てないんだからな。でも、と彼は考える。あいつはいったい何の病気にかかってるんだっけ。


                           <了>





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Last updated  Apr 10, 2005 04:52:35 PM
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