バニラと還暦と
僕が小学校の頃、40歳は「おじん」(おじいさん)であった。60歳なんて、腰がまがり杖をついている。実際、60歳のおじいちゃんは、浪曲、尺八、盆栽に精を傾けていた。僕のまわりには、60歳=定年組が大勢いる。ある意味、60歳は大きな仕切りでもある。先日、60歳を実感させられた事があった。これ↓↓↓↓映画館の窓口で激しく逡巡後・・・・・・「シニアです」と免許証を提示。すると1,800円が1,000円になるのだ。なんとも、複雑な心境に晒されたのであった。死と向き合っている高齢者ですら、自身を、おじいちゃんとは思っていない現実を、僕はたくさん見て来た。4~5歳まで時間は無限だ。60歳になると、時間の区切りが5年単位になる。70歳では、2年単位、おそらく。80歳では、6か月単位。高齢で死を迎えるまでは、2~3日単位。意識が混濁する直前まで、誇りや人格は、はっきり見てとれる。意識を失っても、しばらく大きな声で名を呼んでも手を強く握りしめても、反応がある。反応がなくなると、数時間かけて生理的な死の受け入れが始まりほとんどの人は、安らかな呼吸を続ける。命と死の境目が限りなく接近し、やがてオーバーラップする。僕は自分の死は恐れていない。恐れているのは、家族やキキやバニラの死だ。順序では、キキそしてバニラだ。キキは20歳以上生きるはずだ。(現在17歳)後4~5年は大丈夫である。バニラは5歳と4か月。いつの間にか、口先や下あごの一部が白髪で白くなっていた。僕はキキが死んだら、大泣きする、と思う。しかし、バニラの死は想像できないのだ。バニラの白髪に気がついてから僕はバニラの死を受け入れる準備をしようと思った。今日も元気な、我が家のキキ。