5/27 藤原歌劇団「リゴレット」
東京文化会館 15:00~ 3階右翼 これはまぁ.....評価の分かれるところなんでしょうか..... リゴレット:アルベルト・ガザーレ マントヴァ公爵:エマヌエーレ・ダグアンノ ジルダ:高橋薫子 指揮:リッカルド・フリッツァ 東京フィルハーモニー交響楽団 リゴレットとは何者であるか?一般にリゴレットは「娘を陵辱され怒りに燃える父親」であり、「その容姿故に道化として生きざるを得ず、故に阻害される者」ということになっていると思います。その立ち位置の普遍性からか、通常このオペラは、あたかも不条理な悲劇であるかのように看做されます。まるで聖書のヨブ記に出て来るヨブのように。 けれど、リゴレットがとても嫌な奴であるのもまた事実なのです。リゴレットとは、最上位者である公爵にへつらい、欲望の為には廷臣を殺めてしまえと唆し、公爵の餌食になった娘の名誉を回復せよと怒鳴り込む父親を「たかが名誉ごとき」と嘲う者でもある。それが一度自らの娘が陵辱されるや怒り狂い、殺してやると息巻き、実際に殺し屋を雇って殺す - 失敗するけれど - 。リゴレットは公爵(の筈)の死体を前にして言います。全世界が俺の前に伏している!と。 どちらが真のリゴレットであるか?どちらも、という陳腐な回答になるのでしょう。ただ、これまでのリゴレットは主に前者に重点を置いた存在であったのだろうと思います。だから、第2幕のリゴレットはいわば様式的な存在なのであって、「リゴレット」個人とは言えない。例えばバスティアニーニやウォーレンやカップッチッリが描いたリゴレット像はそうしたものだと思います。様式的で普遍的な怒りを表出する役柄としての「リゴレット」。だから、我々は冒頭でのリゴレットの言動との矛盾をあまり意識しないし、第3幕での決定的悲劇をリゴレット個人の因果応報とは考えず、むしろ彼個人に起因しない何か(呪い?)による避け難い不条理な悲劇、というように受け取ります。必ずしもそのように意識したりしなくても、そういう視点が交じることは間違いないのではないかと。 今回のリゴレットで、フリッツァとガザーレは "Cortigiani!" を通常、というよりはかつてカップッチッリなどが歌ったのとは比べ物にならないくらいの速いテンポで歌いました。最近このアリアを速く、激しく歌う人は少なくないようですが、それらと較べても極めて速く、その速さが最後に至るまでそれほど落ちないのです。 このアリアは、最初に廷臣達を罵り、動かぬと見るや哀願し、それすらも心動かさぬと知って悲嘆に暮れて慈悲を乞う、というアリアです。大抵の場合、この最後は聞かせどころとて見得を切るようにリタルダントして歌い上げるのが一般的。ところが、今回はそうではない。あっさりではなく、あたかも嵐が吹き荒ぶかのような激情に任せて最後まで歌い通すといったところ。 その結果、このリゴレットからは様式的なもの、普遍的なものが失われていました。そこに居るのは、ただの利己的な、我が子可哀さに狂乱する父親でしかありません。このリゴレット像が、今日のフリッツァとガザーレが描き出したものではなかったのかな? フリッツァの指揮は、楽譜通りなの?とつい思ってしまうほど強弱を付けた演奏で、リゴレットに限らず全体に激情的に描き出された演奏でした。今回の演奏、初日は不評だったようですが、恐らくこれはオーケストラも歌手も付いて行けてなかったのではないかなと。そこで、徹底的に感情的に描かれるリゴレットは、最早「様式的悲劇の主人公」ではなく、一個人リゴレットに過ぎません。そう見た時、我々は人を嘲り、我が娘を溺愛し、その為に激しく悲嘆し、挙句には娘を陵辱した男を殺そうとして、結果愛娘の死を眼前にすることになる、哀れな、しかし結構感情移入しにくい父親を目の当たりにすることになるのです。 リゴレットが復讐を試みなければジルダは死ななかった筈、だからリゴレットがジルダを永遠に失うのは因果応報、と考えるのはやはり論理的におかしいのだけれど、このリゴレットを見ているとついそんな気がしてきます。 こう考えた時、フリッツァの指揮はムラがどうこうということではなく、彼の考える物語に演奏家達が付いて行けなかったということではないのかな、という気がします。フリッツァは指揮者として演出をしている。これは、オペラの演出として本来あるべき姿とも言えるのかも知れません。 でも、私は「嫌い」ですけどね。この「演出」。多分そういうことじゃないかな、と思った上で言えば、やはり私はリゴレットは様式的悲劇の主役として扱われることを良しとするのでしょう。でも、様々な問題点も内在するとは言え、この演奏は一つのあり方として評価されるべきだと思います。好かないけど。 全般に歌手は小粒。 ガザーレのリゴレットは、まぁ、その点に於いてそこそこ歌えていました。一部弱いなと思うところもあるけれど、不幸な(でも自業自得?)父親として説得力がありました。 唯一「小粒」という表現がはまらないのは高橋薫子。惜しむらくは、第2幕最後、綺麗に決まらなかったこと。ここといい、第1幕のアリアといい、やや音程が下がり気味でしたが、安定感はありましたし、表現力もあって、歌手陣では今日一番だったのでは? 後は皆小粒。一応歌えるけど、という感じ。ん?マントヴァ公爵?だから、小粒なんですって。東京文化会館は厳しいですねぇ。実力が見えちゃう。でも、ここでちゃんと出来なきゃねぇ。 合唱がやたら人が多くて、その結果コントロールが効かなくなってたのが残念。 東フィルは、まぁよく頑張ったでしょう、ってところかな? いわゆる演出については、かなりがっかり。冒頭の人の動かし方はもう全然ダメ。そもそもここは舞踏会場だろうというのに、なんで人が居たり居なかったりなの?基本的にオーソドックス系の演出なんだし、場面を書き換えてるわけでもないのなら、「舞踏会」は「舞踏会」らしく作りなさいよ、というところかな。 以後も、かなり無理のあるセットが続く。まるで小さい劇場用のセットで、無理して工夫して押し込んだ的雰囲気が漂う。これが、例えば昨日のみなとみらいホールのような、制約条件の多い場所であればともかく、東京文化会館であれば、わざわざこんなセットを持って来なくても良かったのでは? 全体的には.....うーん。「悪くない。でも、俺は好かん。」こんな感じ?まぁ、こういうような読み方が正しいのであれば、ですが。