10/13 紀尾井シンフォニエッタ東京 第61回定期演奏会 特別追加公演
紀尾井ホール 19:00~ 1階後方 武満徹:弦楽オーケストラの為の3つの映画音楽 ニノ・ロータ:チェロ協奏曲第2番 <独奏アンコール> カサド:無伴奏チェロ組曲第3楽章 ベートーヴェン:交響曲第6番「田園」 指揮・チェロ独奏:マリオ・ブルネッロ 正直に言うと、私は紀尾井シンフォニエッタが好きではありません。もっというと、紀尾井ホールとか、ついでに言えばモーストリー・クラシックとか、そういうのを結構いいものとして支持してしまう種別の集団を好きではありません。いや、自分でも偏屈だと思うんだけど。 で、そういう人間がなんで紀尾井シンフォニエッタを聞きに行くかと言うと、一種の定点観測で、いつか化けるんじゃないかと思って聞きに行く訳です。今回は加えて、マリオ・ブルネッロが弾き振りで出るし、特別追加公演てことでチケットも買えるし。 で、結論ですが、予想以上の不快感を抱えて帰ってきました。あのですね、いつも偏屈で大抵は的外れな悪口ばっかり書いてますが、演奏会そのものに不快感を感じて帰って来ることは殆ど無いのです。最近では、去年二期会に見切りを付けた時くらい。 一言で不快感の理由を申すなら、共犯関係的な志の低さと自己欺瞞、と申しましょうか。 紀尾井シンフォニエッタ、「合奏精度の高いアンサンブル」として自他共に定評が高いそうです。しかしね、それ、全然的外れだと思うのですよ。 本日の紀尾井シンフォニエッタ、後半はベートーヴェンの田園。編成は、弦五部が8-6-6-4-3という編成。この編成は、今時、フルオーケストラが大きいホールで演奏する時でも、ものがハイドンやモーツァルトであれば、このくらいで演奏することもあります。で、ベートーヴェンでもこのくらいまで絞ることはあります。流石に田園とかになると、1stヴァイオリンで7プルトくらい入れたりもしますが、平均すれば6プルトくらい、つまり、12-10-8-6-4、或いは途中で1プルト増やして低弦を厚くする程度で演奏するのが最近は一般的だと思います。 でね。実は、これが、紀尾井シンフォニエッタの「合奏精度の高さ」の正体の一部なのです。 アンサンブルの精度の高さ、というのは、まずもってアンサンブル全体の人数が少なければ少ないほど楽なのです。ところが、もう一つポイントがあります。つまり、音楽の振幅を抑えることが出来れば、変化要因が少ないですから、合わせ易い。更に、ある程度の腕であれば、テンポが速いほどリズムのズレも起きにくいので更に合わせ易い。 紀尾井ホールは700人も入らない規模のホールです。大雑把に言えば、このホールは一般的大ホールの、大きめに見積もっても4分の1程度の容積です。そういうところに、フルオーケストラの3分の2規模のオーケストラを突っ込むとどうなるか。まず、音量のダイナミズムが個々の奏者としては控えることが出来ます。で、プレゼンスの強い演奏をやり易くなる。だから、他に色々やる余力が出来る。「合奏精度の高さ」は、有り体に申せば、このホールで演奏やってるこの団体がそのように見なされるのは当たり前なのです。出来て当たり前。新日フィルでも東フィルでもN響でも、まぁなんとか東響でも、この程度の人数に絞ってこのホールで3日合わせれば、この程度はいけるんじゃない?ということなのです。 でも、見方を変えれば、それは紀尾井シンフォニエッタの罪ではない。問題は、そう言う意味で、身も蓋も無い言い方をすれば「楽をしてる」この団体が、ではその分何を高めているか?ということなのですが、それが、まるでダメダメなのですよ。 本日の田園の第1楽章は、かなりゆっくりしたテンポで始まったのですが、これが、全然アンサンブルが合ってないのです。勿論、テンポが遅いと、合わせにくいのは確か。だから、合わない部分もあるだろう。けれど、合わないのです。しかも、歌わない。このテンポを指示したであろうブルネッロの意図は、彼の音楽からも考えるに、ここでより幅の広い、息の長い演奏をさせたかったのでは、と思うのです。でなければ、この規模のホールでこの編成を取る理由も無い。にも関わらず、フレージングは合わず、しかも息切れしてしまう。歌わない、広がらない、という演奏。微妙にテンポが揺れるので、尚更合わない。 以下、第2楽章以降は格別テンポが遅いということもなく、淡々と進みましたが、結局、何もないのです。「小さいホールで、それに比してダウンサイジングしていない団体で演奏しました」という以上のものが何も無い。 一体、この団体は、恵まれた環境 - それは、練習環境とかだけでなく、そもそもこのタイプのホールを本拠とすることで出来るであろう音楽表現の可能性 - をどのように活かして来たのか。この団体を最後に聞いて、確か2年くらいは経っていると思いますが、そもそも売りの「合奏精度」というやつも、今日の演奏では鈍っていると言わざるを得ませんでした。前提条件で既に精度は高くて当たり前なのに! 6,7年前、オーケストラ・アンサンブル金沢が、オペラシティのコンサートホールで来京公演をした時に、やはり田園をやったことがあります。指揮は岩城宏之。その時のオーケストラはせいぜい20人ほど。コントラバスは確か1人でした。それなのに、あの大きいホールで、ちゃんと田園をやってみせたのです。それは、勿論フルオーケストラのようなダイナミズムは無かったけれど、そうしたものの代わりに、個々の楽器の響きをたっぷりと聞かせ、タイトではありながら、同時に表現の幅も最大限持たせてやろう、というものでした。言わば、ぎりぎりまで奏者を切り詰めてアンサンブルを高めながら、それで出て来る余力を「響き、音色にこだわる」とかいったところに回したわけです。そこには音楽表現に対する取り組みが感じられるのです。少なくともこの時、オーケストラ・アンサンブル金沢(と岩城宏之)には、言ってみれば音楽を作って行こう、この先の何処かへ音楽を作って行こうとする意思があった。 多分、今日の紀尾井シンフォニエッタにないのは、この意思です。怠惰である、と言ってもいいでしょう。恐らく、当人達も、この公演には居なかっただろうけど定期演奏会の会員も、そんなことはない、と言うでしょう。けれど、はっきり言って紀尾井シンフォニエッタは明らかにその先の音楽を作る意図が感じられない。それなりに美しくはあるけれど、絶対にそれ以上にはなれない演奏。辛辣な言い方をすれば、これは、向上する必要が無いと思っている人達の演奏です。ホテルのピアノラウンジで弾いてるピアニストみたいなもの。というと、ピアノラウンジのピアニストに失礼ですね。 私は偏りはあるにせよ、一応オーケストラも幾つか聞いているし、よくボロクソに書いたりするけれど、どのオーケストラも、N響ですら、一応真面目に「その先」を考えている片鱗を見せることはあります。出来不出来もあるし、時には手抜きにしか聞こえない演奏で、ふざけんなこのやろう、と思うことはあるけれど。それでも、これほどではない。こんな風にやってる方はそりゃぁ気持ちよく音楽出来るでしょう。それを聞いてべた褒めする人々の集団で埋め尽くされる小ホール。それを聞いて更に自己肯定的に気持ち良く。 これは、贔屓だから言うのではないけれど、マリオ・ブルネッロの罪ではないでしょう。 ニノ・ロータのチェロ協奏曲(さすがに、こんなのやるなよ、とは思ったけれど)、確かにそれなりに面白い曲ではあるけれど、結局は映画音楽か.....と少し感じてしまう所、ブルネッロが独奏で入って来ると、途端に様相が変わってしまう。そこまでは、確かに「結構な音楽」であったのが、ブルネッロの演奏は表現も、音も、実に生気があって、音楽の柄が全く違ってしまっている。さながら害の無いイージーリスニングを演奏している所に、いきなり真剣勝負の歌をひっさげて登場したようなもの。ついでながら、武満も、映画音楽だからではなく、何をしたいのか分からない音楽に終始しておりました。よく言えば絶対音楽って言うんですかね。 ブルネッロは、本当はソロ・コンサートで聞きたかったのですが、休日に公演が無いので仕方ない。ただ、今回のロータやアンコールを聞いて思うのは、やはりこの人マイスキータイプの歌う人なんだな、ということ。ただ、マイスキーほどにはぐずぐずのロマンティストではなく、どっかに理性が残ってる感じです。その辺が違うかな。 彼の指揮は、悪くはないけど、そこへいくとチェロ演奏ほどではないかな。指揮というのは、オーケストラに対して足し算と掛け算で作用するものだ、と思っています。そういう意味で言うと、掛け算の係数はそう高くはないのではないかな、と。いや、それ以上に、オーケストラの持っている音楽に足せるものが、彼のチェロに比べるとかなり低いのではないかと。だから指揮者失格ではないけれど、そんな気がします。元々持ってる音楽が芳醇なオーケストラを振らせれば、結構違うんじゃないかと思いますけども。