オーケストラは本当に必要か?
先日、びわ湖ホールの問題について書きましたが、その後、フォロー記事でasahi.comにこんな続き物が掲載されました。 〈公立音楽ホールどこへ:上〉「びわ湖の衝撃」オペラ襲う 〈公立音楽ホールどこへ:中〉共同制作・提携…苦境下の模索 〈公立音楽ホールどこへ:下〉巡演前提に企画し、効率化を それと相前後して顕在化したのが、大阪センチュリー交響楽団を巡る補助金カット問題。事実上、補助金が無くなれば、オーケストラの存続は立ち行かなくなると見られているとのこと。 産経ニュース:交響楽団存続へ、有栖川有栖さんら署名提出 大阪センチュリー交響楽団を応援する会 これに関連して、アリスさんが「アリスの音楽館」でこのような記事を書かれております。その他にも、多くのblogで取り上げられているようです。 http://moon.ap.teacup.com/alice2006/364.html 失礼ながら、結論で仰られている、センチュリー響に対する情報公開と寄付金集めの二つの要望、というのは、全く正論ですが、「オケを潰す理由など、いくらでも見つかる。そういうものを自分から見つけたがる、冷ややかな音楽愛好家を私は信用しない。」と言われてもねぇ..... そうした考え方こそが、潰れる背景にあると思うのですけどね。失礼だけれど、要望事項はともかく、一般の「音楽愛好家」なるものが上記のような発想で臨む限り、オーケストラの存続問題は同じように繰り返されると思いますし、結局どんな問題も解決する方には向かないと思います。 例によって、私の結論は変わりません。 そりゃ支持する人たちは、それが立派なものだ、大事なものだ、と思っているから反対するのであって、それは道理なのです。 その「常識」をとっ外して、オーケストラ、要りますか?と考えることが、重要だろうと思います。 一つ指摘しておくべきなのは、これが新しく就任した新府知事の「政策」の一環として打ち出されていること。つまり、政権としての「やることをやっていますよ」というアピールとして利用されているということです。その面ではスタンドプレーでしょう。が、しかし、その一方で考えなければならないのは、それが「利用価値がある」と看做されるということ。つまり、それが必ずしも社会一般に不当な訴えにはならない、ということです。 似たような事例が、数年前から都響を巡って繰り広げられています。こちらも補助金はカットされてますが、なんとか存続はしている(なんて失礼なもんではなく、デ・プリースト指揮下でそこそこのレベルまでは改善されたし、今週はインバルを迎えて「千人の交響曲」やってます。......買えなかったけど)わけです。ただ、あの時も、署名運動をして、チャリティーコンサートはやったりしたけど、大々的に個人からの寄付金が増えたわけではない。 確かに、センチュリー響は、それなりに社会貢献活動をやってはいるようです。しかし、厳しい言い方をすれば、その種の活動、新日や東フィルといった都内のオーケストラなら大なり小なりやっています。問題は、それに対しどの程度必要性を感じて貰えるか、ああ、それなら補助金を出して存続させよう、と納得して貰えるか、だと思います。金額の多寡ではなく、必要性とそれに対する対価として見合うか、ということです。 この問題は、実は、今まさに問題になっているガソリン税を巡る道路特定財源と同根なのです。あれは勿論、利権を確保したい道路行政と道路関連産業の問題ではあるのですが、それをすり替える時、「この道路は必要だからだ」という論法が使われる。問題なのは、「この道路が必要かどうか、誰が決めるのか」「どうしてこの道路は必要なのか」「どのくらいこの道路が必要で、それに見合う投下可能なコストはどのくらいか」ということの筈なのに、そこが議論未成熟なまま決まってしまっている。だから、極めて不透明に見える。 だから、何故必要なのか分からない道路が造られ、分不相応と思える規格で造られ、かつコストは管理されているかどうかも怪しい、となる。 知らない人から見れば、同じ構図に見えるのではないでしょうか。 なんでオーケストラが必要なのか(「何をやっているの?」「それってやらなきゃいけないことなの?」「他にオーケストラがあるんでしょ?」)、何故これだけのコストが必要なのか(「補助金が何故そんなに必要なの?」「経費かかり過ぎじゃないの?」)。 びわ湖ホールを巡る問題は、それが端的に表れた例です。こちらの方がより切実かも知れません。県外からのお客が、自分たちの税金を使ってオペラを観る。自分達にはなんのメリットも感じられない。「音楽愛好家」はそうした思いを抱く人達からすれば、文字通りの税金泥棒と感じられるかもしれない。文化だぁ?ふざけるな!税金払ってる自分達に何の関係もないものをやっておいて、勝手に県外から押し寄せて、何が文化だ!自分達の金でやれ!皮肉でもなんでもなく、至極真っ当な正論だと思いますし、そうした考え方が非文化的とも言えないと思います。 以前も書きましたが、文化とは社会と繋がっていることでしか本来は意味が無いものです。社会の裏付けを持たない根無し草の文化はサブカルチャーに過ぎない。否、むしろ、「文化ごっこ」と呼ぶべきかも知れません。 例えば、びわ湖ホールの例で言えば、出演者皆無償で、かつ、通常公演のお客から強制的に何千円か取り立てて、地元の、例えば年金生活者などに、無償で観る機会を定期的に提供する。そのくらいのことをしてもいいのではないでしょうか? センチュリー響で言えば、4億払って府民は何を得られるのか、何故その4億が必要か、根気よく説明するしかないでしょう。純粋な感情論では何も解決出来ない。音楽がエモーショナルなものであるということと、音楽を維持していくために必要なことを考えることとは、地続きではあるけれど、あくまで別の話です。 これを「音楽愛好家」側でどのような方向に持っていくべきか、正直結論は出ないのですが、署名した9万人以上の方々(今はそこまでいっているそうです)は、自分達が署名したことの「責任」(いわば道義的責任)を持って貰いたいと思います。この数の人達が一人年間5千円出せば、この問題は解決するのですから。その5千円が出ない、ということを考えて貰いたい。 ま、難しいと思いますけどね。音楽愛好家って、所詮は消費者だから。提供されるものを如何にコストパフォーマンス高く選んで消費するか、ということにしか興味が無いから。それに、その9万人が皆定期演奏会の会員だったら、状況は随分違うんじゃないでしょうか?でも、実態はそうではないですよね。 こないだ、ある人が「自分は音楽の社会問題的な面に興味無いから....」てなことを言われていたのですが、そうした態度で臨む人が大半なんでしょうね。 余談ですが、今回ラ・フォル・ジュルネのボランティアに応募したのは、どうやら数百人程度のようです。連休中の2日間、半日を2回やる。たったそれだけのことをやろうかと思う人がそれしかいない。勿論、極めて順調に進んで来ているように思われる音楽祭で、動員数100万人を超えるというのに、それしかボランティアなんて集まらない。 自分でも、これで某かの答えに到達するとは思っていないけど、こういう風にでも試しに何かやってみないと、結局何も分からないだろうな、というのが、こんな面倒なことをやってみた理由です。 音楽そのものも含めて、もう少し、社会と音楽と自分の関わりを考えて貰いたいと思うんですけどね。