10/27 エディタ・グルベローヴァとウィーンの愉快な仲間達「アンナ・ボレーナ」
東京文化会館 15:00〜 3階左手 ドニゼッティ:歌劇「アンナ・ボレーナ」 アンナ・ボレーナ:エディタ・グルベローヴァ ジョヴァンナ・シーモア:ソニア・ガナッシ エンリーコ8世:ルカ・ピサローニ リッカルド・パーシー卿:シャルヴァ・ムケリア ロシュフォール卿:ダン・ポール・ドゥミレスク スメトン:エリザベス・クールマン ハーヴェイ:カルロス・オスナ ウィーン国立歌劇場管弦楽団/合唱団/舞台上オーケストラ 指揮:エヴェリーノ・ピド 演出:エリック・ジェノヴェーゼ ええ、世間的には、「ウィーン国立歌劇場日本公演」って言うんでしょうけどね。でも実体はこういうこと。 グルベローヴァを初めて生で聞いたのは、20年前、チューリッヒとミュンヘンでコンスタンツェとルチアを歌うのを卒業旅行で聞きに行った時。もう既にその時点でグルベローヴァの盛りは過ぎたと言われていましたが(盛りだったと言われたのは1988〜90年頃らしいです。当時はそんな風に言われていた)、まぁもうその時点でもとんでもなかった。これしかあり得ない、という歌唱だった。それからも何度も、或いは日本で、或いは海外で、いろんなものを聞かせて貰いました。 今回の来日が最後というグルベローヴァだけれど、正直、去年のロベルト・デヴリューと、その後のリサイタルを聞いた時点では、今後は舞台ではなくて、リサイタルで、リートなんかを主体にやって行ってくれれば、と思っていただけに、今回のアンナ・ボレーナと、これが最後という話は、残念だけれど納得の行く話でもありました。 それほどに、去年のロベルト・デヴリューに限らず、ここ数年のグルベローヴァの衰えは隠せなかった。去年のリサイタルでのルチアは、それはもう奇跡と言いたくなるくらいに見事だったのだけれど、本当に、針に糸を通すが如きギリギリの所で成立させた絶唱だったと思います。 否、むしろ、既に還暦を過ぎた身で、オペラの舞台で主役を張れる事自体がとんでもないこと。 しかも、グルベローヴァが舞台で歌う時は、いつもベストであれかしという主義であり、それは今でも変わらないし、それ故に、確かにトップクラスの歌唱であったのは間違い無い。 けれど、かつて空前絶後としか言い様が無かったグルベローヴァの歌唱は、いつしか「未だ追随する者無し」となり、「トップレベル」になってきた。そのように衰えて来たのも確か。 アンナ・ボレーナは結構主役出ずっぱりのオペラではあるけれど、今回もそれを十分な程に見事な歌唱で聞かせてくれたのは確かだった。けれど、例えば低域に於いては喉で詰まったように感じさせる声になってしまったのは事実であるし、高音に於いては嘗てのような輝かしい響きと張りを伴った声、とは言えなくなっていた。それでも尚なかなか並ぶ者の無い見事なものではあるけれど、例えば、最後幕切れでの高音でのかすかな音程の揺らぎ。そうしたものは、決して嘗てのグルベローヴァには無かったものだった。 けれど、そうした事以上に、中声域での、言わばベースになるべき歌唱自体に揺らぎが現れるようになってしまった。グルベローヴァの歌唱が、多少高音域での技術が衰えても、下の方を出すのが苦しくても、「女王」であり得たのは、結局、基礎としての歌唱の安定性が盤石であったから。だからこそ、グルベローヴァの歌はいつでも聞くべきものだったし、高い芸術性と高度な技術というエンターテイメント性を兼ね備えて来た。その基盤ともいうべき処に、とうとう揺らぎが見えるようになってしまった。 嘗て、グルベローヴァがリサイタルで、或いはオペラの舞台で、(どれであれ)狂乱の場を歌う時、満場が静まり返ったものでした。物音一つ立てるのも憚られる。いや、それ以上に、異様な緊張感に満ちた空気で満ちていた。それは、音楽を聞くという期待感以上に、グルベローヴァの歌唱が、音楽が、さながら真剣で仕合っているような、グルベローヴァとお客の一人一人が対峙しているような、まるで気を抜けば斬られるのではないか、少し大袈裟だけれどそのくらいのものを感じさせる緊張感だった。 それは確かに、狂乱の場で、音楽を存分に使って聴衆をそういう所へと引き込んで行く、そういう技ではあったけれど、そこに至っての緊張感がやはり半端なものではない。そういうものを聞かせていたし、お客の側もそれを感じていた。 今日の公演でも、確かに緊張感に満ちた瞬間はあったけれど、確かに引き込まれはしたけれど、あれほどの緊張感ではなかった。お客の集中力はそこまでではなかった。それは、聴衆の側の感受性の問題が皆無と断定はしないけれど、やはりそれ以上に、そこまで引き摺り込む程の力が足りなかったように思うのだ。 なるほど確かに女王の最後であるか、と。 無論、そんなことは前から分かっていた事ではあるのだ。しかも、それでも尚、嘗て空前絶後の歌唱で聴衆を熱狂させた、その残照と云えども、それはそれでそうそう聞けるものではない。だから、決して失望はしていないのだけれど。 歌手にせよ何にせよ、惜しまれて退く人も居れば、最後までボロボロになるまで第一線に立って遂に仆れる、そういう人も居る。グルベローヴァの場合、衆目の一致する所、惜しまれて退く方の人なのでしょう。けれど、「グルベローヴァ」という空前絶後の歌手として言えば、むしろ後者であるように感じるのです。個人的には。 第一幕から、盛んにブラヴァーが掛かっていたけれど、結局最後まで自分としては掛ける気にならなかったのは、結局、「グルベローヴァ」として、嘗て多くの舞台で、私を魅了し、否圧倒して来た、そのグルベローヴァに掛けて来たブラヴァーを、今日の歌唱に掛ける気はどうしても起きなかったから。過去の栄光にブラヴァーをするよりは、今日のこの歌唱に、ただ、温かい拍手を送るに止めたかった。 ま、多分、あまりにセンチメンタルなんでしょうけどね。 終演後、楽屋裏に向けて長蛇の列が出来ていたけれど、無論並ぶ気は起きなかった。今まで、グルベローヴァのサインを貰ったりした事は無かったし、自分としては結局無くて構わないと思う。舞台と客席の間で存分に「仕合って来た」のだから、別にサインを貰ったり、言葉を交わしたり、何か近しいものであるかのように感じる演出を必要としたことは無かったのだし。 実はもう一回聞く予定はあるし、本当は三回とも聞けるものなら聞きたいと思っている。グルベローヴァは今年で引退という訳ではないので、海外で、また何処かで聞く機会が無いとも限らない。というかどっかでもっかい聞きたい。 けれど、今日の歌唱を聞いて、何か区切りが付いたように感じているのも事実ではある。 さよなら、神様。 ソニア・ガナッシが、後半意外に良くなって来て、なかなかにいい歌を聞かせてくれました。オケも合唱も、相変わらず安心して聞ける水準をキープ。あとは、まぁ、いいや。