「現代音楽村」の悲鳴
小人閑居して悪事を為す。 いや、私の事です。 まるでブログも書かずにほったらかしといて、いざ珍しく早く帰って来て暇が出来たなと思ったらこんなものを書いている.....「オリー伯爵」とか「カルメン」とか「蝶々夫人」とか書く事が.....あ、あんまないか.....シラグーザだけ..(ごにょごにょ) 話題の佐村河内守の話、ではありません。実際は。 いや、正直、本筋の話に関しては、私は何も言いたい事はありません。まるで聞いてなかったし。聞いてなかった理由も極めて偏見に満ちたもので、つまり、私は初めて件の交響曲のCDの現物だったか広告だったかを見た瞬間、「サムラカワチノカミ?なんだそれ?」と瞬時にパチモン認定してしまったのでした。よって、後から耳が聞こえないのどうのという話は聞こえて来たけれど、まるで興味無し。酷い話で、この人の中で多分これは真実であろうという部分をまるっきり誤解してガン無視していた訳で.....偏見も甚だしいのであります。ハイ。 という訳で、本来だったらこの話に触れる事はまずなかった筈なのですが、ね。 件の「ゴーストライター」こと新垣隆という人は、現代作曲家なんだそうで。で、例の会見後、同じく現代音楽に関わっている伊東乾という人、この人はどちらかというと音楽家というよりは文筆業の人みたいに思っていたのですが、まぁ、この人が一種の「擁護論」みたいなものを書いているのですが....... 多分副題が肝心だと思うのですが、曰く「あまりに気の毒な当代一流の音楽家・新垣隆氏」 まだ2/13時点では完結してないようなのですが、まぁ、読んでみて下さい。 めんどくさかったら、最初の分だけでいいかも知れません。まぁ、両方読む方が、後で分かりやすいんじゃないかとは思うけど。 偽ベートーベン事件の論評は間違いだらけ http://jbpress.ismedia.jp/articles/-/39905 音楽家の善意を悪用、一線を越えた偽ベートーベン http://jbpress.ismedia.jp/articles/-/39908************************************* .........読みました? 読んでみて、何を言っているのか、分かりました? 正直、私は、最初読んで、何が言いたいのかよく分かりませんでした。 どうやら、新垣さんを擁護しようとしているらしいのだけど、それにしては何か変だなぁ、というのが、感想。 つまり、これ、最初の方に顕著なのですけど、「新垣隆という人は、極めて才能のある現代作曲家で、彼からすれば今回代筆として作曲したような音楽は取るに足らないどうでもいいようなものなのである。」というようなことを言っているように思うのですね。 でも、それって、擁護してる事になるの? と、私は思っていたのです。 一般的に、この新垣さんを擁護するなら、「彼は利用された」と言うのが一番一般的な擁護の仕方だと思う訳です。だって、問われているのは、楽曲の良し悪しとか、彼の才能の有る無しではなくて、「嘘」に対する善悪の問題みたいなものなのだもの。「あれは"課題の実施"のようなもので、彼にとってはそれが"問題を解いた"喜びみたいなものだったのだろう」とか言われても、誰もそんなこと問題にしてないような.....? で、この違和感に気付いた時、もう一つ感じていた違和感と繋げて考えて、「こういうことなのか?」と思ったのですね。勝手な推測ですが。 新垣さんの会見詳報はまだあちこちに出ていると思いますが(例えばhttp://sankei.jp.msn.com/entertainments/news/140206/ent14020619290013-n1.htm)、その中で、私が一つ感じていた違和感が、「著作権は放棄したい」という発言。 なんでかというと、そもそもこの人、佐村氏に楽曲を売り渡していて、それが彼の名前で世に出て行く事を容認していた訳ですね。で、普通に考えれば、それはもう著作権は彼に渡してあると考えるのが筋ではないのか。であれば、この新垣さんは今更著作権なんて放棄出来ないんですよね。だって、もう自分のものじゃないんだもの。 とはいえ、まぁ、そんなに理屈っぽく考えるのでなく、「自分が実際に書いたものだから」くらいの考えの延長線なのか、程度に思っていたのだけど。 ただ、先の伊東氏の記事を読み、そこで感じた違和感と、この「著作権」の話と、もう一つの新垣さんの発言を合わせた時、「こういうことなのか....?」と邪推してしまったのであります。 新垣さんの曰く「自分の作品が演奏されて、多くの方々が聞いてくださるということは、非常にうれしいことでした。」 文脈としては、これは、「自分の作品が他人のものとして世に出る事に葛藤はなかったか?」という質問に対する答えの一部で、その後で「だけどどう受け止めていいかよく分からなかった」とも言っているのですね。 でも、「うれしかった」って言っちゃった。 日本の現代音楽、と言った場合、演奏される機会は、いわゆるプロレベルの演奏会では本当に稀だと言っていいと思います。現代音楽の夕べみたいな演奏会でもなければ、演奏される事は殆ど無い。あってもどれだけの人が聞いてくれるものか。合唱曲や吹奏楽の曲であれば、或いは、課題曲として取り上げられれば広く知られる事もあるでしょうが、そんな機会がそうそう転がっている訳もなく。 何より、こうしたものがどういう形であれ「売れる」ということはほぼ無い。それは日本だけでなく多くの現代音楽で言える事です。ペルトとかグレツキみたいな聞かれ方をするチャンスは本当に少ない。 そういう状況下で、どういう形にせよ、自分の書いたものが、自分の名前でないにせよ、多くの人に聞かれ、喜んでもらえる。それがうれしかった、と、素直に読めばそうなります。 件の伊東氏は、それを「課題の"実施"」だといって、そこに新垣さんの本質はない、余技である、と言っている訳です。 わたくし思いますに、新垣さんという人は、少なくともこの点に於いてはとても正直な人なんじゃないか、と推測するのです。こういうことをしていた動機はいろいろだろうし、お金も貰っていたのだし。でも、「多くの方々が聞いてくださるということは、非常にうれしいことでした」というのは、それはそれでその通りなんじゃないか。 いろいろに言い繕う事は出来るし、芸術とか音楽の定義付けも出来るのだけれど、結局、現代音楽って大して聞かれていないし、それほど必要ともされていないわけです。 勿論聞いている人もいるし、必要としている人もいる。けれども、それは世界全体の中で考えれば、とてもニッチな話であるわけです。 ニッチでいけない訳ではない。でも、どういう意味合いであれ、創作者として、自分の創作したものが受け止めてもらえるとすれば、10人よりは100人、100人よりは1,000人の方がいい、という感覚はあるだろうとは思うのです。それが全てではないけれど。 日本の現代音楽、と一口に言っても、結構広く受け入れられ、聞かれている人もいます。でも、それほどでもない人もいる。 ここに挙げる名前に大した意味はありませんけど、例えば吉松隆とか池辺晋一郎とか、そういう人に比べれば、新垣さんはやはり「受け入れられていない」作曲家でしょう。そういう人が、自分の名前ではないにせよ、「本来の自分」の作風ではない、いわば「陳腐」なモノを作り、しかしそれが万単位の人に聞かれ、ポジティヴに受け入れられるということを「うれしかった」と語る時、私は、それは、結構正直に「うれしかった」のではないかな、と思うのです。 でも、それって、「現代音楽」のあり方を否定する事になりかねない。 売れてる人はいいですよ。でも、それほど広く聞かれていない、けれどもこれこそ芸術だ、と主張して「現代音楽」している人達からすると、新垣さんの「うれしかった」という実も蓋も無い言葉は、脅威ではないのか、と。 つまりは、この伊東氏の記事は、その実、新垣さんを「現代音楽の世界」へ回収しようとする試みなのではないか、と思うのですね。つまり、擁護されているのは、実のところ新垣さんではなく、「新垣さんが本来属しているべき所」、つまり「現代音楽の世界」なのではないのかな...... ま、邪推です。小人閑居して妄動す、てなことは誰か言っているのかどうか知りませんが、ま、そんなもんです。一方で、ここまで書いたからって、新垣さんの「現代音楽」をCD買ってまで聞こうという気はないし。 ただ、そうやって読むと、件の記事がある程度腑に落ちる気はするのですね。 といって、あまり同情的になる気もないのではありますが。 つまるところ、人に聞かれない、聞く必要性を感じさせない、ということは、フォーマットとして機能不全である、ということなのでして。そのフォーマットからいわばはみ出た問題を、自らの内部に回収する事で辻褄合わせしようという発想は、正直、外部からすると気持ち悪いのでありまして。 実際、これ読んで「じゃぁ現代音楽聞いてみよう」と思う人っているのですかね。一般の報道で為される「売れない現代音楽家」とか「不協和音だらけの難解なゲンダイオンガク」というステレオタイプ的な語り口もどうかとは思うけど。