11/26 新国立劇場「シモン・ボッカネグラ」
新国立劇場 14:00〜 3階正面 シモン・ボッカネグラ:ロベルト・フロンターリ アメーリア:イリーナ・ルング ヤコポ・フィエスコ:リッカルド・ザネッラート ガブリエーレ・アドルノ:ルチアーノ・ガンチ パオロ・アルビアーニ:シモーネ・アルベルギーニ 新国立劇場合唱団 東京フィルハーモニー交響楽団 指揮:大野和士 演出:ピエール・オーディ この一週間ばかりお休みを貰って渡欧してました。なのでまだちょっと疲れてるままに観劇.... プログラムによれば29年前に藤原歌劇団がやっているのですが、今回改めて観てその印象がとても強いのだなと改めて思うところでありました。その後日本では観たかどうか。ザルツブルクで演奏会形式で聞いたのはよく覚えてますが、舞台としては藤原のそれなのですね。録音や映像としては、ジョルジュ・ストレーレル演出で舞台に掛けた、アバド指揮のが印象が強いのですが、やはり藤原なのかなと。 で、プログラムを読むにつけ、今回の演出を見るにつけ、そしてなにより改めて聞いてみて、なるほどな、と思ったのでありますが、まぁ、何故かこのオペラ理解されてないのですね。今日も多分皆喝采はしているけれど、よく分かってないんじゃないかなと。なのでいつもの通り、いや、いつもにも増して、勝手なことを書こうと思います。 で。今日の演出。悪いとは言いません。でも、決定的なことを理解していないのだと思います。多分あまりにベタだから、そういう読み方を避けてしまうのではないかなとは思いますが。 あのですね。一言で言うと、シモン・ボッカネグラという人は、ロマンチストなのですよ。最初っから最後まで、ロマンチストのシモン・ボッカネグラを主人公にした浪漫譚。このオペラはただそれだけの話なのです。悲劇か?悲劇ではあるでしょう。でも、これは、ある意味ハッピーエンドなのです。ペール・ギュントの物語が、最後、ソルヴェーグの腕の中で死んでいく、あれと同じようなものなのです。でも、ペール・ギュントよりははるかに立派なのではないかと思いますけれどもね。でも、あれと同じで、本質はどうしようもないロマンチスト。 プログラムを読むに、演出家以下、スタッフも、プログラムの執筆者も、まるでこのことを無視している。或いはわかっていない。言い換えると、このことに気付いてしまえば、こんなに分かりやすい物語はないのです。入り組んでいるとかなんとか、これが入り組んでるなら「フィガロ」なんてどんだけ捻れてるんだよ、という話であって。 シモンのロマンチストであることは、きちんと物語を見ていけば明らかです。妻とすべき女の父親にあくまで許しを得ようとし、しかし叶わず、そのことをずっと引き摺りながら25年生きてきて、ついに死の間際にその和解を得たことに安らいで死んでいく男。その過程の言葉の端々を見ていけば、冷酷な為政者でありながら、あくまで「和」を追い求めようとする姿もまた明らかであって、それは如何に演出がそのことを無視して描こうとしても覆い隠せるものではない筈です。それが読み取れなかった?だとしたら、それは、その種のロマンチシズムを教条主義的に陳腐なものと決めつけてるからとかではないですかね。それではオペラは、少なくともヴェルディのオペラは、きっと分からない。 そして、どうしてもストレーレルのイメージと、藤原の演出のイメージ(マダウ=ディアツだったらしいです。懐かしい名前だ)に引っ張られているのではあるでしょうが、これもシモンの言葉の端々に出て来る海への憧れ。そういうところもロマンチストの面目躍如だと思うのですよ。ヴェルディの音楽も、プロローグ冒頭から海を感じさせるものが端々に現れていると思うのですけれどもね。 プログラムを読むと色々理屈は書いてあるわけで、それが間違っているとは言い切れないのでしょうけれども、でも、やはり、言うほど厄介なオペラではないのですよ、シモン・ボッカネグラというオペラは。うっかりすれば椿姫やリゴレットやトロヴァトーレなんかよりよほどロマンチックな話かも知れない。そのシモンのロマンチシズムを汲めない時点で私としてはダメだなと思う訳です。 オペラの演出については、現代演出がどうだとか言われることが多いと思うのだけど、詰まるところ、現代かどうかじゃないんですよね。物語をきちんと汲めているか、読み替えるならどう落とし前をつけるのか、それによってどういう物語になるのか。それを読み切れない限り決していい演出にはならないのだと思います。舞台上の見掛けじゃないんですよ。 音楽的には、まぁ、ぼちぼち。言うほどではないです。藤原の舞台が思い出されるのは、なんと言っても、あの1幕最後の呪いの場面。あの場面の凄味というのは今でも思い出されるのだけれど、今回はそれほどでもなかった。演奏が悪いとは言わないけれど、怖くなかったよね。あと、本当に最初の最初、プロローグの冒頭のアインザッツが雑。揃ってないのではあるけれど、揃う揃わないではなくて、雑。そういうのは、ダメです。そんなに雑に入っちゃダメ。これは大野和士の問題でしょう。全体に悪くはないとは思うけれど、そういうところが問題なのよ。 外題役のフロンターリはリゴレット以来ですが、そうねぇ......まぁ、あんなもんでしょう。言うほどのことはなし。アメーリア役は、なんかこれどうなの、という.....声は大きいんでしょうけれど、ちりめん系ですね。2017年に椿姫、2021年にルチアで来ているらしいですが、椿姫の時は中途半端だという感想だった。21年の時は行ってないみたいなので - 多分コロナ禍で行かなかったんじゃないかな - なんともですが、まぁ、ちりめんビブラート、久々に聞きました。好きなタイプではないです。アドルノ役は、まぁ、声はありました。馬鹿っぽいけど。でも、ヴェルディのテノール役は大体馬鹿なので合ってないわけではないのでしょう。あとはまぁ特筆するほどのことはないかな。合唱は、うん。藤原のアレに比べると全然ですね。今の藤原の合唱の方がいいとは言いません。この間の二人フォスカリでは藤原だけでは持たなかったわけだし。でも、昔の藤原はそうだったんですよ。そういうこと。 言うほど悪い公演ではなかったと思います。なんだよこれ、と席を立ちたくなるようなものではなかった。むしろ悪くはない。でも、それ故に呼び覚まされる記憶と相俟って、あれこれ思ってしまうのですよね。そういうところでしょうか。