カテゴリ:東京の記憶
JR三鷹駅前のビルの5階に「太宰治展示室」がいつの間にかできていた。 小さな施設ながら展示品は太宰の娘さんが三鷹市に寄贈した遺品で構成されているそうで、それは思った以上に充実していて、太宰家を模した室内をゆっくり進むうちに驚きやら興奮やらがじわじわと高まった。 同時に、高校生の頃読んだはずの「人間失格」がどのような話だったかほとんど思い出せない自分に、やばい…と思っていた。 三鷹での太宰の足跡を小一時間辿った後、余韻に浸りたくてJR国立駅近くの古書店で太宰の本を探し、数冊見つけた中から「斜陽」を買った。「人間失格」はきっとまだ持っているはず、と思いながら家に戻ると、あの子はこれをいつ読んだのだろう、子ども部屋の本棚に、古くて薄いその文庫本は収まっていた。 少し赤茶けた頁をめくっていくと、語り手(太宰本人を思わせる)を悩ませ続ける幾多の苦しみは、彼以外の誰かが彼に与えたものではなく、言うならば自作自演。自分で想像した不幸や苦しみに自ら縛り付けられているように思えた。と言うか、そうとしか思えなかった。「女性たちからこんなにもモテるあなたが、一体何を不満に思っているのでしょう」という妬みにも似た疑問はもとより、お節介にも「マインドフルネス瞑想でもいかがですか」とお勧めしてみたくもなり、「心配事の8割は実現しないそうですよ」と話しかけてみたくもなった。 だけど、おそらく高校時代の僕は、彼の余りにも過敏な悩みに共感し、その姿を格好良いと思い、愁いを帯びた仕草や物言いに憧れも感じていたと思う。齢を重ねて僕は変わってしまったのだろうか。それとも時代の空気が変わったのだろうか。 どちらも正解、という気がするけど、言えることは、高校時代と比べると、今の僕は小説を読まなくなった。直接的に知識を得るためだったり、心の救いを得るためだったり、本に実利を求めることが多くなった。 そんな僕が「太宰治展示室」のお陰で、再び太宰作品に接することができた。彼の巧みで変幻自在な文体や日本語そのものの奥深さを、今回たっぷり感じながら時を過ごすことができた。 「斜陽」も早く読み始めたい(もしかすると、読み返したい、かもしれない)。 太宰の世界との再会に、とても感謝している。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
Last updated
June 7, 2024 10:47:47 PM
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