カテゴリ:東京の記憶
太宰治展示室(三鷹駅前)の余韻に浸りながら、国立駅近くの書店で「斜陽」を買った。 旧華族の没落。 第二次世界大戦後、貴族的な特権を奪われ、収入も途絶えた旧華族の母と娘と息子の日々を太宰は書き綴った。 うろ覚えながら、すべての華族が戦後没落したわけではなく、華族の同窓会のような組織は今も東京にしっかりあると記憶している。 とは言え、斜陽を読みながら、歌と恋に明け暮れてやがて武士に乗っ取られた平安時代の貴族たちの姿、そして栄華と共に貴族化し滅亡した平家の姿を僕は思い浮かべた。 長い間特権に守られて、生きるために必要な力を身に着けることなく年齢を重ねた彼らが、突然、終戦直後の混沌とした市井の中に放り出される。隠すことのできない気品と教養を負い目と感じ、おままごとのように暮らし、おままごとのように努力し、おままごとのように苦しみ、それら懸命に大衆に溶け込もうとする「おままごと」は結局実を結ばず、失意とプライドと狂気をはらみながら堕ちていく。 驕れる者久しからず… 一言でいうとそういうことなのだけど、ただ、これが太宰作品の魔力なのだろうか、無縁のはずの旧華族の心の動きに僕の心は吸い寄せられた。この感覚に驚きつつも、彼らの境遇はきっと誰もがどこかで経験しているはず、そんな風に思った。 例えば、多くのサラリーマンが経験する定年退職はこれに近いだろうか。 何十年もの間、一日の大半を仕事に費やし、コツコツ働き通した結果それなりの肩書きを得て、部下もできて、権限もあって、ずいぶん偉くなったような気がしていても、退職した瞬間、すべては過去になる。偉そうにしゃべってみても、もう誰も本気で聞いてはくれないし、自分が動かしていると思っていた組織は、後任が難なく回している。何者でもなくなった自分を受け入れられずに不満を募らせる老人の見苦しいこと、そして傍迷惑なこと…。 こうして書いてみると、定年退職は華族の没落と比べようもなくどうでも良いことだったけど、とにかく「斜陽」が描く世界は、特権階級だった人たちだけの物語では決してないと、僕は感じた。 災害とか感染症とか、次々と大きな災難に見舞われ、文学にも明るい未来や救いを求めたくなる今の時代に、太宰の小説の多くは不向きかもしれない。 時代と合わない。 正直そんな気もしているけど、なぜだろう、「人間失格」を読み終えた時、すぐにに「斜陽」を読みたいと思った。そして、太宰作品をもっと読みたいと今の僕は思っている。 太宰治の文章には謎の魅力があると思う。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
Last updated
June 7, 2024 10:48:02 PM
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