カテゴリ:仙台の歴史
六十人町(ろくじゅうにんまち。仙台市若林区)
第二次世界大戦中、六十人町周辺は仙台空襲の被害にあわなかったので、藩政時代からの道筋が変わることなく残っています。 そして、戦後、全国的に実施された住居表示もここでは行われず、今もこの道筋の両側の町名は、藩政時代のまま「六十人町」になっています。 六十人町の通り沿いに城取神社という小さな神社がありました。 神社には、おそらく地元の町内会の方々が置いてくれた、六十人町の解説がありました。 「六十人町由来」 五十人町から百米南に六十人町がある。 畳屋町の東端から東に延びている通りである。 足軽が六十人居る故に名付けられた。 世臣録によれば総数六十人内十九石二十四石各一人他は十六石宛とある。 旧東街道から東へ約八十米のところに城取神社がある。 城下と旧南小泉村境に祀ったもので寛永三年(一六二六)町割りの綱張りの縄を埋めたので城取明神と称したといわれる。 この足軽たちは微禄な生活を補うため野菜類を耕作して河原町にあった市場に売りに出た。 身分は士分であったので腰には一刀を差し編笠で面部を押し隠して天秤棒を担いで野菜を運んだという。 これら足軽を檀方といい足軽町は檀方町と読んだという。 〈郷土史研究家 三原良吉先生講演抜粋〉斎藤悌二 記 そして仙台市のウェブサイトには六十人町についてこんな記載があります。 畳屋丁※から東に延びる五十人町南側の町。正保年間の地図(1645-1646)では「中間(ちゅうげん。武士の下働きをする者)屋敷」となっているが、その後は足軽が住むようになり、幕末には足軽が町の名のとおり60人住んでいた。町の鎮守として城取神社が祀られている。 (仙台市HP 町名に見る城下町) ※畳屋丁は「地番入仙台市全図大正15年度最新版」には畳屋町と記載されています。 〔参考:仙台市「歴史的町名復活検討委員会報告書」(平成21年1月)〕 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
Last updated
May 28, 2024 09:21:25 PM
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