カテゴリ:仙台の歴史
柳町(やなぎまち)
仙台藩祖・伊達政宗公と共に仙台に移り住み、代々伊達家に仕えてきた商人や職人の町。 いわゆる政宗公お抱えの、由緒ある商人や職人が住む町は「御譜代町」と呼ばれ、柳町は、仙台城下に6つある御譜代町のひとつでした。 かつて柳町だったエリアは、今、仙台市青葉区一番町一丁目、片平二丁目のそれぞれ一部になっています。(昭和45年2月1日住居表示)〔参考:仙台市「歴史的町名復活検討委員会報告書(平成21年1月)」〕 柳町の東端には大日如来があり、境内に辻󠄀標「柳町/教楽院丁」が建っていました。 辻󠄀標では「柳町」を次のように解説しています。 「伊達氏の御譜代町で茶の税が免除され、裏には茶畑があったという。初めは元柳町に置かれ、寛永初年南町と北目町の間に移され奥州街道筋となった。商人と御職人の町で田善銅壺屋は最も古い店の例である。」 (辻󠄀標10番。昭和53年設置。設置場所:大日如来境内) そして、辻󠄀標が建つ大日如来の説明板には、御譜代町の説明がありました。 「仙台の大町、立町、肴町、南町、柳町、荒町の6ケ町は伊達政宗公に従って、米沢から岩出山、仙台と移ってきた町人町で、昔は御譜代町と称した。柳町は初め元柳町の地に置かれ、寛永の初めころここに移って今柳町と称した。」 辻󠄀標に記されている「田善銅壺屋」は今も「タゼン」として柳町にありました。 「タゼンの初代善蔵は、慶長元年、伊達政宗公により御飾職(銅の彫金工)として大阪は田中の在から召し抱えられました。仙台の町づくり、仙臺城築城に際しての功労により柳町(現一番町一丁目)に住まいを賜りました。それ以降当社は〝昔からの銅屋〟としてこの地にて創業を続けております。」(タゼンHP「会社概要」より) かつての柳町は、広い道路(五ッ橋通)で分断され、仙台駅側の柳町には今も商人の町の雰囲気が漂い、一方、広瀬川に近い側を歩くと、学都っぽい静かな雰囲気が漂っていました。 横切っている広い道路が五ッ橋通。奥には再び柳町があり、突き当りには広瀬川が流れています。 かつての柳町は、概ね赤いラインの範囲。 地図上で「片平二丁目」とある一角には東北大学の研究施設が並んでいます。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
Last updated
April 21, 2024 01:33:07 PM
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