カテゴリ:仙台の歴史
元柳町(もとやなぎまち)
仙台の城下町が開かれた当初は、伊達政宗公に付き従ってきた商人や職人が置かれた御譜代町のひとつ「柳町」。 その後、武士が増えたため、武家屋敷が並ぶ町となり、町名も「元柳町」となったとのこと。 昭和3年に市電が開通し、線路を敷くために元柳町は道幅が広がりました。(市電は昭和51(1976)年3月末に廃止されています。) この写真では、通りの右側に西公園。西公園の奥が広瀬川。広瀬川を渡った先が仙台城内(青葉山)になります。 広瀬川を見下ろす西公園の中に「立町/元柳町」と記された辻󠄀標が建っていました。今の広瀬通が立町、旧市電通りが元柳町ということになります。 辻󠄀標は元柳町を次のように解説しています。 「御譜代町で仙台開府当時大町以北片平丁の東裏におかれ、茶の税を免ぜられた。侍が多くなると寛永初年柳町は移され元柳町と改名、侍屋敷となった。のちには元櫓丁の西端も元柳町とよばれた。電車開設で道幅が広げられた。」 (仙台市文化財パンフレット第23集「辻󠄀標のしおり」より) 仙台市HP「道路の通称として活用する歴史的町名の由来」も元柳町を次のように書いています。 「仙台開府当時、柳町が置かれた西公園の東側の地を指す。寛永四・五年(1627-28)頃、荒町の移転と共に移された。」 かつての元柳町は、今は青葉区大町二丁目、桜ヶ岡公園、立町の各一部になっています。(昭和45年2月1日住居表示) そして、「元柳町」という町名について、「地番入仙台市全図大正15年度最新版」という地図には「本柳町」と書かれているそうです。 〔参考:仙台市「歴史的町名復活検討委員会報告書(平成21年1月)」〕 元柳町の範囲はだいたい赤いラインのあたりだと思います。 T字路になっているのが不自然ですけど、Tの縦棒にあたる通りに、ここも元柳町であったことを示すサインが立っています。 ちなみに西公園の説明板によると、明治8年(1875)に公園になる前は、仙台藩重臣 伊達藤五郎、古内左近介、大内縫殿(ぬい)のお屋敷だったそうです。 西公園の広瀬川沿いには「常盤木学園発祥の地」という碑もありました。 公園の中のこの場所は、当時「元柳町68番地」という住所だったそうです。昭和3年に設立された後、昭和20年7月10日の空襲で消失し、戦後、小田原金剛院丁に移転。今も私立の女子高としてこの地にあります。(高校女子サッカーの強豪校です。) お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
Last updated
May 29, 2024 06:37:42 PM
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