何事につけても自分が厭わしい気の病
学校に行ってよかったなと思うことは、今思い出せることと言えば、中島敦の「山月記」を知ったことと、「人間万事塞翁」を習ったことぐらいだ。学校で習ったわけではないが、悟浄出世という中島敦の名作があって、これは頭でくよくよ悩むひとたちすべてのひとに送る必読文献だ。幸い青空文庫ですぐ読める。ホーリー・マウンテンのパルケノン神殿巡りのように、悩みの末に海底の賢者たち遍歴の末、ついには、観音様の夢のなかの「これよりのちは、一切の思念を棄て、ただただ身を働かすことによってみずからを救おうと心がけるがよい。」というお告げを頼りに再出発する姿は、ある種のひとにはたまらないだろう。観音は告げる。「身の程知らずの悟浄よ。いまだ得ざるを得たりといいいまだ証せざるを証せりと言うのをさえ、世尊はこれを増上慢とて難ぜられた。さすれば、証すべからざることを証せんと求めた爾のごときは、これを至極の増上慢といわずしてなんといおうぞ。」もうひとつ悟浄嘆意も青空文庫にあって、こちらはトータルにエネルギーを生きる孫悟空をくよくよ悩む沙悟浄が語る内容となっている。これもお薦め。 神秘をただ生きる孫悟空への憧れが描かれている。でも悟浄出世のほうがお薦めだ。この短編ふたつ合わせて、『わが西遊記』と総称されてる。『西遊記』を題材に、沙悟浄を主役とし、中島敦は「僕のファウストにする」という意気込みで書いた。wiki らしい。ユーチューブに朗読があります。本を読めないひとはこちらを。こちらは中島 敦・作「悟浄歎異-沙門悟浄の手記」(かたり・竹崎利信)以下OSHOこれが西洋全体、現代人のマインドが直面している基本的な問題のひとつなのだ。私達はすべてを理解しようとする……そして本来、生というのは神秘なのだ。それを生きることはできるが、理解することはできない。理解しなければいけないと言い張るならば、あなたはずっと表面的なままでいるだろう。知性は皮相的なものでしかなく、ある程度までしかいくことができず、それ以上深く入ってはいけないのだ。深さというのは知性の次元ではない。知性の次元は長さだ。だから、細部について知りたいのなら、知性はいくらでもどんどん与えてくれるが、それは深く入っていくことはできない。それは深さの次元にある事実を、垂直に掘り出すことはできないのだ。だから忘れてしまいなさい。理解する必要などないのだ。Osho, Above All, Don’t Wobble, #22より抜粋