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日本人は、月に一度は祝日で休みがないとやっていられない国民だと思う。
それに対し、アメリカ人。 月に一度はイベントがないとやっていられない国民だと思う。(笑) ハロウィン→感謝祭→クリスマス→ニューイヤー、と来れば もう食傷気味だと感じるのだけど、 何せ何でも売り物にして稼ぎたいのがメンタリティ。 次はバレンタインデー。(そして聖パトリックの日、 そしてイースター、 後は母の日、父の日、卒業祝いと続く。) でもこのバレンタインカードにかこつけて、 今回イタリアの大事な友人と、カトリックの受洗の時期に出会ったフランカさん(彼女のクリスチャンネームからそう呼ばせていただくが、彼女は日本人)にカードをしたためた。 フランカさんはアメリカ人(正確には彼もイタロアメリカーノだったから、姓はイタリア系だ)のご主人を亡くされてから、教会に足を運ばれた。 ご主人が危篤に陥られた際に カトリックの神父様が臨終の塗油や最後の御聖体拝領などのため、嵐の中を訪ねてこられたことに 驚きや興味を感じておられた。そして他界された後、 悲しみの中 彼女は当の神父様に尋ねられたという。 夫の魂は、今どこにいるのでしょう。 神父様はこう言われたらしい。 神様の御許に。 フランカさんはその時のことを語った時、茶目っ気たっぷりにこう続けられた。 わたくし、がっかりいたしましたのよ、そう神父様がおっしゃられた時。本当は、貴女のお側に、という言葉を期待しておりましたのに。 わたくしを置いて、さっさと神様のところに行ってしまったのかと思うと。 そして そんな神父様との会話の中に、彼女はご主人の持っていたユーモアのセンスと、そこから時に垣間見えるクリスチャンの精神性など、共通に感じられるものがあったという。 わたくし、カトリックのことは何も存じませんの。でも知りたいと思いまして。 フランカさんも私も幸運なことに、その教会にカテキズムを教えてくれる土曜の午後の講座があり、宣教師の非常に優れた神父様がそこで 卵をかえすめん鳥のように皆を暖かく迎えてくださったため、 居心地良い事このうえなく、何だか小さい子供に戻ったみたいな気分でカテキズムを教わり続けたのだった。 テレジアホールと呼ばれたその小さな部屋の中で、フランカさんは飛びぬけて上品で、美しく、真面目な話し振りの割に可愛らしい甘えた口調も出て、とても魅力的だった。 マントのようなコートを羽織り、少し元気がなさそうな風を 皆が フランカさん、どうしたの、と尋ねて 彼女が、ええ、少し風邪を引きまして、熱がありますのと応えられるや一斉に彼女を取巻く輪が出来る様を見て、真紅のバラが凛とそこに咲き誇っているような印象を受けるほどだった。 ご主人が著名な音楽評論家としてジャパンタイムズに長年記事を書いておられたこと、彼女自身が音楽家を志してその分野に夫同様の教養があること、ご夫婦で巨匠と言われる指揮者や、有名なピアニスト、オペラ歌手など親交があることなど、誰が伝えるともなく広まって、華やかな彼女の人生に羨ましいと感じる人は少なくなかったろう。別世界の人を見るような思い、といった方が正確な表現かもしれない。 カテキズムを教えてくださる神父様に、彼女は わたくし、金魚のフンのようにくっついてしまいまして と半ば申し訳ない風に、それでも教わることを全部吸収してしまいたいという熱心さも手伝って、心から信頼を寄せ、許可を得られる限りどこまでもついて行かれた。 神父様が、バチカンから 亡命し国籍を失って30年以上になる祖国への帰任を命じられたのは私たちに洗礼の司式をされてから1ー2年の事だったように覚えている。 あなたたちに、キリスト教の真髄を伝えたかった。 発たれる前に、こう私たちに話されて、神父様はお国のハンガリーに戻られた。 フランカさんの熱心さは、恩師が近くにおられなくても 旧約聖書の通読会(1年くらいはかかる)、聖イグナチオの“霊操”を教会の指導の下に完走する、教会で主要な働きをこなされる、エッセイを連載される、受洗希望の人たちに頼まれて代母(madrina)を何度も引き受けられる と 豊かな実りをもたらしていった。 そんな彼女は、私のことを 受洗の同期だと言って忘れずに、 イタリアで自分の方向を見定めることのできない私に、ときに心から暖かい心遣いの、 柔らかい女性らしい文体と字体での手紙を送ってくれた。 東京のフランカさんと、イタリアに仮住まいの私は顔を合わせるということはもうなかったけれど、聖霊の御働きというキリスト者の表現で表せる 心のつながりがあった。 それはひとえに彼女の「良さ」によるものだ。 そんな彼女が大切な一人息子を癌で亡くされたのは大聖年の2000年のことだった。 働き盛りの息子さんは、ちょっと体調を崩したようだと病院に出向き、 結果的には治療の甲斐も無く 癌が早くに進行して、 他界されたとのことだった。 フランカさんは気丈にもそのことを 少し時を置いてから書かれて、本が発刊した際、著者の依頼でと、出版社にその本を私の元に送らせたのだった。 イタリアで悩んでいる私の励ましになればと思って。 マリア様と、 かけがえのない我が子を先に失うという 痛みを分け合っておられる彼女を思って、 涙が止まらなかった。 そして その数年後、 フランカさんは 手紙の中で、修道院に入ることにいたしました、と大きな、大きな知らせを伝えてくれた。 トラピストの隠棲修道院なので、外で皆様にお目にかかることは叶いませんが、と知り、そこに入られる直前にかろうじて御電話で話すことができた。 (続く) お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
最終更新日
2006.02.07 15:24:53
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