復興応援ツアーに参加しました(被災地体験編)
29日から30日の土日を利用して、陸前高田と大船渡を訪れる復興応援ツアーに家族で参加してきました。大宮駅を7時40分頃発の「はやて」で一関まで向かって、一関駅を10時半にバスが出発という、かなりの強行軍でした。そんなこともあって、ヒジョーに疲れました特に、何が疲れたかっていうと・・・バスでの座席が我が家は最前列になっちゃったんですよ。ガイドさんの案内に、反応してあげなくちゃいけない座席ですよね。おちおち居眠りもできないってこともありましたし、バスガイドさん、若くてかわいらしい女性だったのですが、イマドキのミョーに回りくどい丁寧語を駆使されるので、聴いててかなりつらかったです現地でレンタカーでも借りて、自分たちのペースで回る方が、たぶん全然ラクだっただろうと思いました。陸前高田では、「語り部」と呼ばれる現地ガイドさんと合流して、元の「道の駅」だった場所で、慰霊施設に参拝した後、震災のお話をうかがいました。震災の記憶をどうやって後世に伝えていくかを考えるとき、災害の傷跡を遺構として残さなければ記憶の風化は免れない、一方で、震災のトラウマを想起させるような光景を取り除いて欲しい、そういう意見も根強くある。そんな様々な葛藤の結果、“ここでは誰も犠牲にならなかった”・・・そういう施設をいくつか残すことにしたのだそうです。道の駅「高田松原」も、そういう施設の一つです。砂浜と松葉という美しい景色を作っていた7万本の松が、たった1本を残して、巨大な津波によって根こそぎ内陸へと運ばれて、引き波で再び海へと戻ってきて建物に突き刺さっていったそうです。その恐ろしく、凄まじい威力を多少なりとも実感できる遺構です。奇跡の一本松は、語り部のNさんのお話によると、元の松の面影をあまり残していない外観になってしまっているそうです立ち枯れてしまった松の保存に1億何千万というお金がかかったそうで、せめてもう少し元の外観に近づけてもらえなかったものか・・・そんな思いがあるようです。ですが、被災地のシンボルとして、多くの観光客が訪れるので、その点では確かに意味のあることだったのかも知れないとも・・・同時に、この一本松の松の種を松ぼっくりから取って撒いて、松のDNAを残す子供たちを育てることも行われているそうです。現在、巨大な防波堤の建設が計画されているのですが、こういうものはきりが無いから、ハードとしての防波堤以上に、大切なのは「心の防波堤」ではないか・・・ともおっしゃっていました。高台への移転も始まっています山を削って宅地造成する場所と、削った土を低地に盛って高台を築く場所と、一応は「一石二鳥」的な方法で進められていますし、車両輸送を遙かに上回る運搬能力の巨大コンベアで土を移送していますが、まだまだ10年から20年くらいかかるのではないかと言われています。いろいろ難しい問題はあるのでしょうが、少しでも急ピッチで復興が進むことを、願わずにはいられませんでした。後半はバスに同乗して、かつて街だった場所を回りながら解説してくださったNさん。最後は「これからも陸前高田の応援団として支援を・・・」と呼びかけて、私たちツアー一行とお別れしました。他にも勉強になることがたくさんあった被災地訪問体験でした。そして旅の後半は、復興応援のための観光編です。