テーマ:心と家族と人間関係(1216)
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11日の日記を12日に書いてます。
昨夜は、10時前にちょっと横にと寝てそのまま暴睡。 起きたら、4時半でした。。。 昨日のブログには、たくさんのコメント、また私信いただきましてありがとうございます。 11日、朝から旦那は少し、大人しくなって仕事に行きました。 私は私で、朝から娘を送り出し、延長保育を頼み母の病院へ。 母が透析用のシャント造設手術でしたので、本人は大したことないよ、と言いますけど、そこはやっぱり気になるしで出かけました。 階下には知らん顔。 駐車場から車出す時、カーテンの陰から舅が覗いてたことは判りましたけど、無視。 母の手術は、予定より30分遅れで開始。家族待機室でお待ちくださいって言われたものの、なんとも重い雰囲気の待機室。廊下に出て、中庭など眺めてたら、旦那が突然来た 私「どうしたの?仕事は」 旦那「うん、今日は日帰りの送迎だけの仕事だったから、予備の人に話したら、交代してくれるって言うから・・・」 私「何を話したの」 旦那「うん・・女房のおふくろが入院してて今日、手術だからって、で、営業所長にも話したら、そりゃ早う行かな、そんなん早う報告せんと・・・って。だから、帰ってきた。ところで、お父さんと姉さんは?」 私「待機室にいるよ、何?」 旦那「うん、・・・」 待機室へ行く旦那・・・何?と思い、後ろから着いて行けば・・・ 父の姿見るなり 旦那「お父さん、先日から色々とお騒がせしまして申し訳ありません。お母さんのお見舞いも遅くなって申し訳ありません。自分がいまひとつ、頼りなかったばかりに不愉快な思いされたことと思います。本当にもうしわけありません。お姉さんにも申し訳ありません、いつもいつも助けてもらってるのに、本当に申し訳ございませんでした」 姉も父も、ポカーンとしてました。 先に動いたのは父でした。 頭、上げんなぁ、と、言いながら、ここではなんじゃし、折りたたみの椅子あるから、それをちょっと借りて、そこの廊下の隅で話そうか、姉ちゃんも陽菜も一緒話そう、そこなら、手術終わって、看護師さん呼びに来てもわかるやろ、と。 父は、遠くを見るような目で話し始めました。 自分の実家は、東北の山林地主で兄弟が8人いた、親父は地主でそっちの管理が忙しかったし、おふくろは、料理屋やってたからそっちで忙しくて、それぞれに乳母がつけられて、幼稚園の送り迎えも運動会も尋常小学校の運動会でも、親じゃなくて乳母が来てた、何か違う、いつもそう思ってた。 中学から東京の学校に行って寮に入って、その時、自分の中で長年思い続けた、何かが違う、それがわかった。判ったら突然淋しくてね、空しくて、しかし、時代はそういう人の淋しさ、空しさを表面化させることを許さない時代に突入してた。 その空しさ、淋しさを打ち消したいがために中学の時、志願して海軍に入ろうと思った。14歳の時だったよ。親父の印鑑が必要だった。親父の印鑑は、厳重に保管されてることは知ってたけど、何とかして、印鑑を盗み押そうと試みて、周到に計画立てて、学校の休みの時、帰って、印鑑押して、海軍に志願した。事が発覚した時は殴られたよ。親父は泣きながら殴った。5歳年上の兄貴も、志願して陸軍にその2ヶ月前に行ってたから親父の悔しさは半端じゃなかったのだろうね。 親父はその時言ったんだよ。「お前は戦争に行った事がないから平気でそういう事をしたのだ。待つものの心が判らぬか」って。 その時は親父の言う言葉の意味は判らなかった。血気盛んな年頃だし、時勢は時勢だし、でもね、戦争行って帰ってきて、初めて親父の言った言葉の意味を思った。生きてることのありがたさの意味をね。でもそれだけじゃなかった。 親父の言葉の意味は、きっと戦争に行かなかったら、わからなかったろうな、なんて、思ってた。復員して、高校に編入して、大学行って、勤めるようになって、結婚して。結婚した奥さんの母親ってのが、知ってのとおりあのバアサマで、女性の地位向上運動の先駆者みたいな人でね、教員の仕事をしながら夫の戦死後、自分で食い扶持を稼いだって気迫のおっかさんと来てる。 自分としては、自分の幼い頃の淋しい思い出があったから、奥さんには家にいて子供達のことも、家のこともしてほしかった。晩飯だって女中さんが作ったもの子供達だけで食べてたからね、だから結婚して嫁さんが作ってくれたご飯食べた時、泣けたんだよ。バカみたいな話だけど泣けたんだ。しかし、嫁さんの親は、オンナを家に縛るなってずっと言ってたよ。 ただ、転勤が多くてね、今みたいにパート仕事が多ければ勤め出たのかもしれないけど、2年に一度は転勤させられてたから、勤めにも出れない環境で、ただね、結婚した当初は、家庭を大事にしようと思ってたくせに、家族のために頑張って稼ごう、それがいつの間にか会社人間となってしまって、嫁さんの愚痴も聞いてやらない、聞く時間を持てない、子供達と一緒に夕食を取る時間が無い、夏休みにキャンプやら釣りにも行けない。 そんな会社人間の親父になってしまってて、たまに自分の実家から手紙や電話があると、その部分だけ見聞きして、嫁さんにどうなってるんだ、と、一方的に言う、それまでに嫁さんは、家にいて離れてはいても、舅・姑から手紙や電話でネチネチやられてたわけよ。でも仕事から帰ってきてもそういう話を聞いてやってないからさぁ・・・ねぇ、今回のカースケ君と同じなわけ。それを懲りずに何度もやったんだ。 いま、思うのは、よくうつ病にならないでいてくれたって思うんだよ。あれだけネチネチやられて、頑張ってくれてたって。ある時、気づいたんだよ。自分には家族はあるけど、この家族の家庭の中に自分の居場所が無いって。それはね、今でも笑い話で語り草になってるけど、姉ちゃんが大学受験でいない日の夜、大学入試に行ってる事を知らなかったんだよ。その時、この家庭の中に自分の居場所がないって思った。どうしてそうなったか?自分が悪いんだよ。家族はいつでも受け入れてくれてた、それに当然のごとく、胡坐かいてた。自分から入っていこうとしたのではなく、受け入れてもらってただけだった。 その時ね、昔、中学に行った時に感じた時と同じような淋しさがこみ上げてきた、酒を飲んでも不味い。友人誘ってゴルフに出かけた。ちっとも楽しくない。そんな時に限って麻雀でも勝つけど、ちっとも嬉しくない。囲碁も勝つ、でも嬉しくない。オンナ遊びでも出来ればまた別の楽しみがあったかも知れないけど、若い時からそれだけは無かったからね、いよいよ淋しくてね。 その時、昔の親父の言葉が蘇った、待つものの心、の意味がね。朝、行って来ます、って夫と子供達が出て行く。夕方、ただいまって帰ってくる、次第に子供達の帰りは遅くなり、進学・就職で親元を離れ、夫は仕事、仕事で夕飯も済ませて帰ってくる、夫としては夕飯済ませて帰れば、嫁さんの手間が省けると思ってのことでも、連絡もしないでメシ食ってきて、何が省けるものかな。 男ってのは、本当に勝手なイキモノだよ、それがよくよく判ったのはここ数年だよ。今ね、こうやって十分暮らしていける年金をもらえるようになったのも、嫁さんが陰で支えてくれたからなんだよ、実家の親父が死んだ時、遺産を殆ど親父はおふくろに譲るように遺言書を残してた。子供達には、少しばかりの現金と、形見分けだった。文句いうのもいたけど、黙ってもらってきた。それから15年後に、おふくろが死んだ時、おふくろは最後まで面倒見てくれた一番下の妹に全ての山林、農地、土地、古美術品、有価証券等、現金を遺贈するように遺言書残してた。兄弟8人もいるから、文句いうのもいたよ。孫の中にも、文句言うのもいた。そいつらは法事にも来ない、哀れな奴らだと思うよ。ただね、一番下の妹は、税金払うので一苦労してた。 何年か前、自動車会社のコマーシャルで、モノより思い出、ってのがあっただろう。それなんだよ。何年前だったかなぁ。長男が、バンクーバーに転勤した時、お父さんとお母さんと二人で遊びにおいでよって言われて行った時、下のチビはまだ生まれてない時だよ、行ったらさ、長男息子がさ、野菜切ってバーベキューの準備してくれてるの、魚って言ったらね、前日、息子が釣ってきたって娘連れて釣りに行って来たって。それ見たとき、嬉しくてね、この息子、このトンチンカン親父のせがれだけど、家庭を大事にするパパになってと思ったら、嬉しかったよ。 カースケ君、世間体とか近所の手前とか親の見栄に縛られず、誰と長く付き合うって嫁さんとなのだから、親の葬式は、介護と一緒で兄弟みんなでするもんだ、だから、アキコさんともうまくやって行かなきゃ。 男二人は、涙顔でした。親父がこんな話するなんて初めて聞いたって姉に言ったら、婿はいまのところ、一人しかいないもんでねぇ、って笑ってました・・・が・・・ 見てしまった・・・姉ちゃんのカレシ・・・元カレじゃなくて、まだ繋がってたとは・・・ わざわざ、仕事休んで、でかい花束抱えて見舞いに来てくれた・・・ お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
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