「私は分断を許さない(堀潤著)」を読んで・・・思うこと。
(ドキュメンタリー映画「わたしは分断を許さない」特報/2020年3月7日より 絶賛公開中!)(実業之日本社 本体1800円+税)ご無沙汰しております~!今日(3/29)は・・・朝は、みぞれでしたが、その後、まさかの、大雪になりました~♪・・・寒い!さて、コロナウイルスのための、外出の自粛の折・・・(だからということでも、無いのですが~♪)「わたしは分断を許さない」と、いう本を、読みました。この本は、ジャーナリストの堀潤さんが取材した、世界の「分断」と、その「手当」について、考えさせられる内容の本です。本を読みながら、何度も、涙で、読み進むのに、時間がかかって、しまいました。(ウフフ、本題は、そこじゃないのですが・・・)福島、沖縄、香港、北朝鮮、パレスチナ、カンボジア、スーダン・・・と、取材を通して、そこにある「分断」と、「それを望んでいない個人たちの声」に、耳を傾ける機会を、私達に、提供してくれる作品になっていると、思いました。ひとつ、ご紹介するなら・・・宇野常寛(評論家)さんとの対談で、 ちょこっと、引用~♪ 俗悪な本音主義を、うまく利用したトランプ大統領の例を出し・・・ 「言論やジャーナリズムは、こういう相互監視のネットワークみたいなものの外側が無くなってしまうと、すでに存在している大衆の欲望の中のどこの大きな塊にコミットするのかというゲームに変貌していくんです。それは、新しい問いを生むということではなくて、すでに存在していることの中から正解を選ぶという問題に、人々の言葉を変貌させていく。」と、宇野さん。 「そうですね。限られた選択肢の中で選ばされて行くと、当然回答が乏しくなるから、分断されやすいですよね。選んだものや選ばなかったものがわかりやすい社会というのは、二分されてしまう。こっちもあるしあっちもあるしという選択もあったんだというバリエーションの豊かさが必要ですよね。」と、堀さん。今、言論やジャーナリズムが、すでに存在している大衆の正解(大多数の欲望?)に、寄ってしまうというか、もっと、多角的な視点から、問題提起がなされるならば、答も、多様化するはずだと。同じようなことを、先日、江川紹子さんのツイッターで、読んだことを、思い出しました。「あらかじめ、用意された答えを、選ばさせられてしまう(言葉は違う!)」ことの、危険性(?)というか・・・そんなことを、書かれていて。これは、発信者たちの、共通の危機感なのかも・・・と、思ったりしました。堀さんは、以前から、「大きな主語」ではなく「小さな主語」を、提唱されているのですが・・・~~~・・・~~~大きな主語:国家、高齢者、女性・・・など。小さい主語:私、山田さん・・・など。~~~・・・~~~大多数の欲望(空気?)は、「大きな主語」に、なりやすいし、逆に、「大きな主語」に、自分を投じることで、安心したりすることも、あるかも。でも、「小さな主語」の個人の事情や意見を、踏みつけにしていいものではない訳で・・・いつも思うのは・・・「分かってもらう努力」は大切ですが、尊いのは、「分かろうとする努力」ではないかと、思っているのです。現実には、分かり合えない状況はあると、思います。でも、分かろうとする姿勢があれば、「分断」は、回避できるような、気がするのです。