境界人 現代日本を科学する の感想 茂木健一郎氏の強烈な個性
前日は、竹内薫先生の科学インタープリター講座に参加し、本日は、同じ朝カルで、竹内先生と時代の寵児ともいえる脳科学者・茂木健一郎さんとの対談に参加した。つい最近まで、竹内先生のオフ会&忘年会は、茂木さんのグループと合同で行っており、7,8年前に2回ほど参加したことがある。そのとき、挨拶程度に茂木さんと話をしたことがあるが、講座などで茂木さんの話をきくのは、今回初めてである。会場は80名以上の人が集まり満員であった。私は、空いていた後ろの席に座り始まるのを待っていた。そして、開始時間少し前に、茂木さんが入ってきた。そのとき私は茂木さんを見て、少し驚いた。なんというかまわりと明らかに存在感が違うのである。よく華やかだったり、際立つ個性の人に「オーラが輝いているようだ」というような比喩を使うことがあるが、茂木さんの場合はなんというか、我々、一般人という平均化され均質な存在の中に全く異質の存在というか個性が投げ込まれてきたというか、とにかく「普通の存在ではない」ことだけは見ただけでわかるのだ。その印象にたがわず茂木さんは、人の話をきくときも話を聞いているのか、聞いていないのかわからないしかめっ面で微動だにせず、と思いきや突然話始めたり、「文系や理系の区別などテンションが上がらない」と切り捨て、「脳トレなどちゃんちゃらおかしく、なぜこれがはやるのかということを問題にしなければならない」などとその特異な個性を存分に発揮されていた。おだやかな表情で対談を進行させ、質問にもできるだけ真摯に答えようとしている竹内先生とは、あまりにも対照的であった。そして、その茂木氏の言動は、私の中でじょじょに違和感に変わっていった。「プロフェッショナル」のようなマスメディアでで見る茂木氏とは違うと。しかし、よくよく考えてみると、マスメディアに出始めた頃の茂木氏を見たとき、私は「以前オフ会で見た茂木さんとは違う。なんでこんなに愛想と人当たりよく振舞っているのだろう」と思ったことを思い出した。一見すると愛想もなにもないこの姿こそ、茂木さんの公の姿なのだ。マスメディアで見慣れてしまった姿として誤解をしてしまっていたのだ。久しぶりの茂木さんを見ていて、あまりの印象の強烈さにそんなことをしばらく考えていた。対談は「境界人 現代日本を科学する」で、境界人とは、いわゆる「文系」と「理系」の両方に属して活躍したり、本流と非本流のどちらにも属しているとはいえなかったりといった、まあ一言で言えば一種のアウトローともいうべき人たちのこと。茂木さんや竹内薫さんは何かひとつの組織に縛られているのではなく、いくつもの分野を横断して活躍されている「境界人」の代表ともいうべき人達である。境界人ということで言えば、私はどこの本流からも大きくはずれて、もはや境界にはいないので、あまり自分自身についてぴんとくる表現ではないのではあるが。境界人という言葉は、竹内先生の初期の著書「宇宙フラクタル構造の謎」(徳間書店)の中に・いわゆる境界人についてというタイトルで掲載されている。この「宇宙フラクタル構造の謎」の中には、竹内薫さんが日本の大学の権威や社会の中で「境界人」として生きる苦悩に触れられており、わからないことは質問状を書いてくれればそれに答える、ということも書かれていた。その人間味あふれる姿に、私は感動し、ハガキを書き、ご返事をいただき、当時非常勤の講師をされていた成城大学に授業を聴講に行ったことが、私の竹内先生との実際の出会いの始まりであった。さて対談の中で、「インフラ」について、茂木さんはよいことを言っておられた。茂木さんのブログに書かれているので、ぜひ見て欲しい。インフラを失ってしまえば、それまでの栄華も夢幻に消える。逆に今、自分が社会に会わないと思っていても活躍できるインフラを作ってしまえばいいということか。茂木さんの話の中で印象に残ったことがある。それは、久高島の海岸に石を置く姿無き女性の行為に代表されるものや、伊勢神宮について日本語で表現できないところで、茂木さんはその本質をつかめたというのである。茂木さんは、それはマスメディアでは絶対には表現できなく、それは誰にも伝わらず、消え去っていくものでしかないが、実はそれらが本質的なことなのだということを言われていた。確かブログにもそのようなことが書かれていたが、ぜひそれを言語化して伝えて欲しいと思った。特に伊勢神宮の本質というのは興味がある。脳科学や物理、文学、マスメディア、多種多様な知識人との間を横断する茂木さんだからこそ、気がつき、つかめたということなのであろう。やはり境界人(「横断人」の方がピンとくるような気もするが)は、これからの時代のキーマンになっていくのだろう。茂木さんは、原典を読むことの必要性と世間の価値にあわせるのではなく、愛を軸にした自分の中の規律で生きることの重要性を訴えていた。また随所に竹内先生と茂木さんの友達として同士としてのやりとりがあり、とても素晴らしく感じた。それと、ブログのコメントには誤読が多いと言っていたなあ。この閉塞した社会を打破するために、そんな茂木さんの強烈な個性にやはり期待してしまうのだ。