カテゴリ:建築
建築家、白井晟一(1905-1983)は、正規の建築の教育は受けておらず、若いころは、デザインや哲学を勉強し、詩、書の分野でも活躍していたらしい。 僕が、白井晟一の建物を初めてみたのは大学に入ってスグの1年の時。先輩に連れて行ってもらった「渋谷区松濤(しょうとう)美術館」だった。周囲の建物に埋没してしまうほどの小さな建物であるが、ある種の存在感が、建築をまだよく知らない自分にも伝わってきた。「何か心に入ってくるものがある建物」であった。その時は、心に入ってくる「何か」が何かはわからなかった。 「何か」が何であったのか? 今日の建築に求められるものは、エコポイント、耐震性能、建物性能評価、CASBEE等、細分化された専門分野でのスペック重視の建築である。それらのスペックを満足させることは、もちろん大切であるが、スペックを積み上げただけで建物ができてしまい。良い成績を上げた建物を「いい建物」と評価する風潮がある。しかし、スペックが時代遅れになると建物は急速に魅力を失い、まるで古い家電のように価値が下がり魅力を失っていく。 白井晟一の建築は、これら「家電建築」の対極にある。 白井晟一 の建築は、技術系のアカデミズムや建築基準法、品確法で言うスペックは劣っているが、決して魅力を失っていない。いつまでも残しておきたいと思わせる「何か」を持っている。 短命な「家電建築」と、「何か」を持っていて永く使い続けたい白井晟一の建築のどちらかが最終的にエコなのか?考えると興味深い。 建築学び始めの自分が感じていた「何か」とは、スペックではなく、人が愛し続けられる魅力だったのだろう。 白井晟一の建築から感じる「何か」も、スペックも両方を求めていかねばならない。 かなや設計 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
最終更新日
2011年01月10日 20時06分42秒
コメント(0) | コメントを書く
[建築] カテゴリの最新記事
|
|