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町田の高校一年生が刺殺されたニュースは少なからぬショックを同じ中学の卒業生たちに与えた。それがもっと広がることに懸念を抱いている。また、逮捕された同級生も同じ中学出身というから、こっちの知り合いも多くいるかもしれない。わたしが今勤務している職場も同じ地域にあり、このニュースを聞いて泣きはらした目で私を見た生徒たちがいたからだ。私は生徒たちと次第に年齢が離れてきて、彼らのトータルとして抱いているムードのようなものを理解できなくなっているのだが、それにしても彼らの心の闇は一筋縄で理解できないところまで深くなっているような気がする。
静岡の高校一年生の事件もよくわからない。母親にタリウムという毒薬を飲ませ、そのことをblog上で創作に仕立てて公開してきたという。こちらはもっと精神的な障害に関しての病んだ部分がうかがえる。 華やかさと浮薄がすべてを見えないものにしている。携帯とそのメールのやりとりがすべてのつながりを断ち切っているようにも思える。つねに携帯を手にしていずにはおれない依存の仕組みを、それは高校生とは限らないのだが、だれが作ったのか? 極端にたくしあげたスカートを穿き、極端にずりおろしたズボンを穿くことで、その極端さの「連帯」、あるいは例の携帯の「連帯」などが生まれるが、その極端さはすぐに日常のなかで消費されるから、今度はその上をいく極端さを考えることで差別化を図らざるを得ない。装身具に凝る、あらゆる鍵をぶらさげて、どこかの倉庫番かと思うと、まさしくロッカーをそれで気取る。顔も心もそれになりきり、授業中はつねに手で8ビートか16ビートのリズムを机のうえで小刻みに叩く。どこまでやってもきりがないから、たいていは馬鹿らしくなって、途中で疲れて降りる。今度は全体的な「無気力」という心地よい差別化がはじまり、こいつはあっというまにどん底まで彼と彼女を突き落とす。 上のようなスケッチはラフすぎるのだが、「高校生」という「商売」は傍目からは気楽そうに見えるが、結構しんどいということを言いたいのである。一種の極端さが常態化しているところでは、なにをもって普通というのかはわからないが、まあより少なく極端であることは、これもつらいことである。周囲の騒音の中でそこだけが静寂であるということを考えられないから、逃亡が始まる。自己へ、自己を痛め、幻覚へ、幻覚に憑依するために薬物へ。いかなる会話も成立しないとしたら、だれが会話を信頼するだろうか?ここにあるのは、この「社会」の正確な縮尺であり、それ以外ではない。 きみはきみの好きなかわいい彼女を殺したのか? きみはきみを生んでくれた母親に緑の小枝を飲ませ続けたのか? どうして? こう問うことは無意味である。法的な言語でたとえそれらの動機が作られたにしても、それはこの「社会」に回収されるための事後的なものでしかない。すべてを飲み込むモンスター。きみたちにはどういう動機もなかったから、あったのはかわいい彼女がそこにいて、母親がきみのそばにいたということだけ。そこが、しかし、深い深い闇であるというような世界にぼくらがいるということだけは確かだ。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
Last updated
November 12, 2005 11:39:40 AM
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