カテゴリ:作物
もういいと思うようなことがなんどもあったが
それでもきみにずっと参っていた そこで起きていたことは自由を望みながら自由でないことを歓ぶ ある種の被抑圧者のような意識だったのかもしれない、それは詩と似ているね、ときみは言う、でも煙になった悲しみが甘美だったのは絶対だ ここから別れるが、言葉がためらうのと、言葉が出てゆくのと、 煙草を吸うのと、吸わないのと、形式と、演技と、詩論と詩と、どう どう、同じなのか?つまり、生きているものたちが話者を気取るのと、死んだ者たちが、生きているものを気取るのと、どう、どう、 やっぱりジャンゴはいいな、ビル・エヴァンスので聴いているのだが、このギターは誰だ?これは煙にならないし、従って詩にはならないし、論にも、 Nさんのジャンゴを聴いてみたいという欲望は身振りのせいですべての死屍に従う 次の拍手の清明さにきみは目覚める、全然質のちがうところを生きている、それを強いられているということから離れたい、このジャンゴはこんなに古くから、それを教えていたので、鮮明に聴こえる HiLLI, HiLOが聴こえるが、これは全然抑圧ではない、煙草を吸わない喜びがそこにはある、清明な響きだ、 自由とは何か、夜に聴くジャズの一音の深さなどと思ってしまうが、それから眠りに就くまでに、香と習慣があり、それは文学とどういう関係を持つのか? 繰り返し、ということ、ルイサダのレッスンが終わると、死んだ巨匠たちのレコードに戻る日々に、繰り返しではないという名前のどんな新しさが生まれうるのか、ということを考える 煙草をやめるということの自由について 死んだ母が教えたかもしれない詩を以上に書きつける これはたぶん続く お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
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