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われわれは人のために生きているのではない(構成:平川 優)
女子高生「先生、教えて! どうして人を殺してはいけないの? どうして人をいじめてはいけないの? どうして自殺してはいけないの? ねえ、ねえ、教えて!」 (映画『かまち』のなかで、女子高生が女の先生に、激しく詰め寄る場面) 人間性とはいかなるものであるか。われわれは人のために生きているのではない。社会のためにでも世界のためにでも、世界人類のためにいきているわけでもない。それを世界人類のために生きているような考え方を持たなければならぬように訓練されているわけです。 よく人道主義、ヒューマニズムということをいいます。これは人間と共に暮らすときの人間の道を説いているのです。つまり、人間生活のひとつのルールを考えるのが人道主義です。しかしこういうものに、われわれは左右されてはいかないのです。いつでも一人のときに、一人の生活の中に、道というものが厳然となければならないのです。ところが、いわゆる理性的な判断というものが中心になってきている。対外的に、あるいは大衆的に、社会的にと、こうなってきますと、この良心、ひとりの生活というものが、だんだんお粗末になってきます。一人の生活ほど重要なものはないのですが、対外とか社会的とかいう考え方がだんだん強くなればなるほど、一人の生活が自堕落になってくるわけです。孔子や孟子が「一人を慎む」ということをおっしゃっております。一人の世界が一番重要だという考え方です。 (橋本凝胤『人間の生きがいとは何か』) 人は自分自身の光りとなるべきだ。この光りが、法である。他に法などない。他の法と言われるものはすべて、思考によってつくられたものだ。だから分裂的で撞着を免れない。自己にとって光りであるとは、他人の光りがどんなに筋が通っていようが、論理的であろうが、歴史の裏づけを持っていようが、自信に満ちていようが、けっして追従しないということだ。もしあなたが、権威、教義、結論といったものの暗い陰の下にあれば、自分自身の光りであることはできない。倫理性は、思考によって組み立てられるものではない。環境の圧力に押されて出てくるものでもない。それは昨日に属さず、伝統にも属さない。倫理性は愛の産む子供であり、愛は欲望や快楽ではない。性愛や官能の楽しみは、愛ではない。(『クリシュナムルティの日記』宮内勝典訳) 自由とは、あなたが自分自身にとって光りになることだ。その時、自由は抽象ではない。思考によって組み立てられたものでもない。現実問題として、自由とは、依存関係や執着から、あるいは経験を渇望することから、いっさい自由になることだ。思考の構造から自由になることは、自身にとって光りとなることだ。この光りのなかで、すべての行為が起こる。そのとき矛盾撞着はない。法や光りが行為から分離しているとき、行為する者が行為そのものから分離しているとき矛盾撞着が起こる。理念とか原理とかは思考の不毛な動きであり、この光りと共存することはできない。一方が他方を否定するのだ。この光り、この法が、あなたと分離している。観察者がいるところには、この光り、この愛は存在しない。観察する者の構造は、思考によって組み立てられたもので、けっして新しくなく、けっして自由ではない。方法とか、体系、修練といったものなど、なにもない。見ることだけがあり、それが行為することだ。ただし他人の目を通してではなく。この光り、この法は、あなたのものでも他人のものでもない。ただ光りがあるだけだ。これが愛だ。 (『クリシュナムルティの日記』宮内勝典訳) (注)平川さんの「究極のもの」と題されたメールを転載した。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
Last updated
April 15, 2006 08:13:43 PM
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