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自分を悪意に満ちたウイルスのように思う。善意の市民たちの隠された暗がりを暴きたて、それを白日のもとにさらすウイルス。ネットのつながりの便利さと危さ、そういうことをことさら意識しないで私はblogを書くだけ、というわけにはいかないのかもしれない。このシステムのすべてに精通することがベストなのだろうが、とてもそこまではいかない。先日のことを、まだ不安に思う友人がいて、様々なことを質問されるのだが、それに上手く答えることができない。もどかしさのなかで、私は忘れたいのだが、友人は忘れさせない。なぜ?なぜ?と彼は訊いてくる。これは私の不注意から起ったことなのだが、これからもそういうことはありうるだろう。私がしっかりと読み、書き、応答すること、このITの言葉で、それができないかぎりは。
アレントの「思索日記」から、 ―人間を「本性的に」倒錯した罪ある存在としてキリスト教的に捉えると、不正行為あるいは不正を犯した事実と、罪人となった存在とを区別することができない。不正を犯した事実はすべて、罪ある存在の証拠となり、罪ある存在を現実化するものになってしまう。 ところがイエスがやったのはそれとは異なり、罪ある存在を解体して、単に不正を犯した事実にすることであった。不正が発疹チフスのように人間につきまとうのは、何らかの不正を犯す前から、自分はすでに罪ある者だったと信じ込んでいるからである。― 私は「不正行為」をやったのかもしれない。たぶん、私が知らないうちに、よく考えもせずに、そのメールにたいして「応答」したことは不正行為にあたる。そのことが友人たちのアドレスにそのメールが届くことになってしまったのだから。 そして「鬱」になる、そして「罪ある存在」になるときに、アレントのこういう言葉を読んだ。 イエスは言う「行くがいい。再び罪を犯してはならない」と。 それにしても自分の存在がウイルスのように思えてならないのは、どうしてだろうか? お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
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