カテゴリ:essay
知事とその取り巻きだけがみょうに興奮して、jocの招致選に福岡市をやぶって、東京が候補になったなどと喜んでいる。昨日のテレビで竹田というjocの委員長が最初から東京と、この人も決めていたのだろうが、発表すると、知事は相好を崩して、いつものように目をしばたたいて、隣の安藤という建築家と握手をしていた。それにしても、この安藤という人も実にいろんなところに出没する人だ。知事の隣にこの人がいたので、私は心底がっかりして、この建築家への今までの信頼(があったとして)のすべてを失った。神戸の被災者のための住宅のプランなど、見るべきものがあると昔は思ったが、もう少し、サポートしたり、売名したりする、対象と行為を選択したほうがいいのではないか。
やっぱり王監督と、姜尚中さんはすばらしい。石原によれば「へんな外国人」ということらしいが、姜さんは福岡市を応援した、王監督も福岡市を応援した、私も福岡市に勝たせたかった。それにしても姜さんを「外国人」呼ばわりする石原は、王さんをどう思っているのか?この男の品性の卑しいことはいつものことだが、どうして、もっとおおらかな見方ができないのか。日本で勝ったとしても、ハードルはいくつもあって、高い。ユーモアの感覚ゼロの男だ。一番おかしなことは、自分の知事3選への出馬を、「東京5輪の言いだしっぺ」だからなどと、自ら周知の事実、いや公認の事実のような言い草で、よし、としてしまうところである。そんなことは許されないよ。 それと、これは全く別のことだ。 君がいままでやったことの総括は終わってはいない。そのうえできみの出馬を求めるものがだれかいるのだろうか?「都民」としての私は、全く反対にきみの知事選への出馬など認めない。 非常に不愉快な「日本人」としての知事、恥ずかしくてオリンピックなどに顔を突っ込んで欲しくは無い、とくにそのときの「知事」として。まあ、そういう事態は確率として非常に低いと思うのだが。 無残なのは動員された「都庁」の職員たちだ、つまらない選挙のあとで、「笑い」を作ることを強要されるのだから。 「都民」のすべては醒めている、一体誰が喜んだ? みんな自分の仕事に精一杯で忙しい。週に3日ぐらいしか登庁しないで、すべてをdespotismの側近政治と化している、この知事の命数がこんなにながく、そして未来を占うなどという傲慢さを許しているのは、「都民」の政治離れと、強いられている悪政のためにバラバラになっても働かざるをえない、という「悪循環」のしからしむるものだろう。 夏の終わり、2時間ほど川沿いの道を歩いた。途中で昔の同僚の颯爽としたジョギング姿に遭遇する。悪いと思ったけど、ストップさせて二言、三言喋ってわかれた。向こうは「走る」、私は「歩く」。稲がたわわに実っている、もうすこしで収穫か。 若い同僚が貸してくれたcd二枚、 コンパイ・セグントとシルヴィオ・ロドリゲス、新旧二人のキューバの歌い手たちの歌を夏の終わりに聴くことができた。 コンパイ・セグントのcdの最後の歌は、ガルシア・ロルカがハバナで書いた「ソン・デ・ネグロス・エン・クーバ」という詩に、彼自身(セグント)が曲をつけたものである。 その最後、 砂浜でこと切れる海原よ サンティアゴに行こう 白い暑さよ、果実の骸よ サンティアゴに行こう おお、牛よ、サトウキビ畑の涼しさよ! おお、キューバよ!ため息と素焼きの曲線よ サンティアゴに行こう Ire a Santiago(サンティアゴに行こう)というくり返しがとても印象的なこの曲を聴きながら、私は「東京」の醜悪さを思わずにはいられない。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
Last updated
August 31, 2006 10:26:07 PM
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