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9月21日の東京地裁民事第36部において、裁判長裁判官 難波孝一、裁判官山口均、裁判官知野明は、被告東京都教育委員会及び東京都に対して原告の都立高校や都立養護学校の教員、もと教員たちが原告となり、争っていた「国歌斉唱義務不存在確認等請求事件」の判決で、原告側の全面勝訴となる判決を下した。その判決文の要旨を退職した年来の友人、七森繁満さんが送ってくれた。彼はいわゆる「予防訴訟」の原告団のひとりである。おりよく、当日は傍聴券が手に入り、判決を直に聞くことができたということだ。以下、その「2 争点(入学式、卒業式等の国歌斉唱の際に国旗に向って起立し、国歌を斉唱する義務、ピアノ伴奏をする義務の存否)について」の判決文を引用する。
-(1)わが国において、日の丸、君が代は、明治時代以降、第二次世界大戦終了までの間、皇国思想や軍国主義思想の精神的支柱として用いられてきたことがあることは否定し難い歴史的事実であり、国旗・国歌法により、日の丸、君が代が国旗、国歌と規定された現在においても、なお国民の間で宗教的、政治的にみて日の丸、君が代が価値中立的なものと認められるまでには至っていない状況にあることが認められる。このため、国民の間には、公立学校の入学式、卒業式において、国旗掲揚、国歌斉唱をすることに反対する者も少なからずおり、このような世界観、主義、主張を持つ者の思想・良心の自由も、他者の権利を侵害するなど公共の福祉に反しない限り、憲法上、保護に値する権利というべきである。したがって、教職員に対して、一律に、入学式、卒業式等の式典において国歌斉唱の際に国旗に向かって起立し、国歌を斉唱すること、ピアノ伴奏をすることの義務を課すことは、思想・良心の自由に対する制約になるものと解するのが相当である。-
以下、被告側(都)の主張-公共の福祉による必要かつ最小限度の制約は教職員の地位に基づく制約として許される、学習指導要領にも定められている、-などを判決文は覆していくのだが、省略する。その際、この判決文の根底にある判断は、「教育基本法」10条1項所定の「教育は、不当な支配に服することなく、国民全体に対し直接に責任を持っておこなわれるべきものである」という「行政」の不当な介入を禁じた条項である。つまり、簡単にいえば、被告たちの所行を「不当な支配」として「罪あり」としたわけである。
この判決文の要旨を読んでいると、高揚するものがある。まだ捨てたものじゃない、という思い、しかし被告側は「当然、控訴しますよ」と言い放った。管理職を緊急に集めて、「今までのやりかたを貫徹せよ」などと「行政」と一体となって、本来なら「価値中立的」であるべきはずの「キョウイ」が命じるのである。
さて、今日はニホン国の新首長が誕生し、早速恒例の「除目ぢもく」が行われた。いつものことだが、意気揚々と官邸に行き、感激して某大臣を拝命しましたなどと語るものの面子を見ていると、どうして「君たちだけは、君たちだけが、そんなに元気がいいのか?」などと思ってしまう。一生懸命がんばって「基本法」も「憲法」も、君たちの好きなように「変改」しようとするのだろうな。
そのとき、この判決文の「光」はまだ届いているだろうか?ここを足場として、「闇」に向わなければならないのは確かだ。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
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