カテゴリ:essay
古いノートに須賀敦子が訳したトリエステの詩人、ウンベルト・サバの長詩「町はずれ」の一部が書かれていた。なぜか職場に持ち込んであるノートのなかにあったので、今日それを読み返してみたのである。 いつかは 花の日が かえってくるだろう。この町はずれに さもなくば これに似た どこかに 誰かが また ぼくの人生を生きるだろう。 そして 青春の烈しい苦しみの なかに 彼もまた 願い 希望をもつだろう。 自分のいのちを みなの人生に 入りこませ そのときの その日 彼にとっての みな と同じになりたい と。(「死を待つ心」より ) 「自分のいのちを みなの人生に入りこませ」というフレーズにサバという孤独なユダヤ人の願望があるのにちがいない。あるいは迫害を受けたユダヤ人としてのと言い換えてもよい。「そのときの その日 彼にとっての みな」というのは素晴らしい表現である。こういう詩こそ「個人的なもの」から立ち上がりながら「個人的なもの」を突き抜けているというべきなのだろうと思う。 「人種的」な孤独感は現代ではもっともっと複雑な様相を呈している。ある意味で、かつてのユダヤ的なディアスポラの恒常化が奥深く、現代世界を覆っているのではないか。それをネオリベラリズムの社会政策やグローバリズムの経済至上主義が加速化しているのが現代である。そんなに大きく構えなくてもいい。「人種」でなくとも、「世代」間の交通さえもが、昔にはあった建設的な「敵対」性を喪失し、それぞれがかかえるルサンチマンのなかで全くの断絶をつくろうとしている。それにしても日本の若い政治家たちの言説はどうして、あんなに「ネオリベ」べったりなんだろう。ポスト福祉国家の流れのなかでの、機会の平等、再チャレンジ、自己責任、などなど。自分たちの政策は棚上げにして、いやいくらでも政策は勉強会で作ることができる、洗練されたソフトなもの、それを疑うものを「無能力」「怠惰」なものとして摘発し、アンダークラスとして「種別化」してしまう、そういう政策が彼らのお手の物である。でも、それは結局「棚上げ」ということと同じではないのか。その根元にあるのは、練達した機械のようなネットスキルが即座に作成してしまうヴァーチャルな政策に過ぎないのではないか。住基ネット上で、われわれは「ゆりかごから墓場まで」、この度はどんな「福祉」の見返りもなく、徹底して透視されるのである。そういう旅のなかで「孤独」は完璧な「病い」としてわれわれにとり憑いて離れなくなるだろう。 後半部は今読んでいる若い社会学者、渋谷望の『魂の労働』(青土社・2003年)から示唆を受けて書いた。 ゆうな? お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
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