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今日は卒業式だった。卒業生の担任ではないが、卒業式は教員としてやっぱり格別の思いがある。あったというのが正確だろう。それぞれの教員の思いを、都教委がぶちこわして、魂や心のない、空虚で野蛮きわまりない「厳粛な」式に強制的に変更してから何年が経過したのだろうか?
また都議会で、ろくでもない答弁(それを引きずり出す議員がいるのだろうが)を教育長がやった。すなわち、「日の丸・君が代」の強制に反対して「不起立」を貫いたその学校の教員で、転勤したり、やめたりしたもの、当該卒業学年に関係の深い人たちを、卒業式の「来賓」として呼ばないというようなものだ。そのことを「都議会で問題になっている」として、早速実行した校長がいたということだ。なかでも朝日新聞の「私の視点」欄に、都教委の強制批判という論旨で寄稿した元校長を呼ばなかった学校があったというニュースは不快の極みである。校長の権限で、来賓を選別せよということなのだが、このようなやりかたが「卒業式」の主役である卒業生たちとはなんら関係のないことは明白である。18歳の人間たちを、脇において、アナクロニズムそのもの、式の物神化そのもののなかに閉じ込めるなんてことが平然として行われている。大概の卒業生たちも、あほらしくなり、形骸化そのものを、馬鹿にしながら、事をおこすことなく(あまりにも低次元ゆえに)、担任の先生たちに同情しつつ、我慢して式に出席しているのが現状だろう。「支配」の自己満足と欺瞞が強制的に「教育現場」を統一してゆくというやり方は、なにもこれが初めてではない。いくらでもあったことだが、ここに完璧に欠如しているのは「思考」する歴史的な反省や理性であり、その積み重ねであり、その欠如を18歳の卒業生という人間たちのまえで露呈するには冷静に考えてみれば恥ずかしすぎる「裸」踊りのようなものである。 一部の議員や教育長を変えねばならない、その上の首長も。民主主義とはそういうものである。恥ずかしすぎてオリンピックどころではない。こんな野蛮なところで、オリンピックなんか開催する資格があるものか。 たまたま電車読書で読んでいるアドルノとホルクハイマーの『啓蒙の弁証法』(岩波文庫)に次のような一節があった。 ―― 表向き真正なものとされている血と犠牲の古代的原理には、すでに良心の疚しさとか支配の狡猾といったものが付きまとっているが、そういうものは、今日、古(いにしえ)の淵源に立ち帰ることをスローガンに掲げている国民的革新運動にはつきものなのである。神話の原型はすでに欺瞞の契機を含んでおり、この契機はファシズムの唱えるまやかしの中で勝ち誇っているが、しかもファシズムはその責めを啓蒙に負わせてしまう。―― これはナチスの全盛期に書かれたものだが、この指摘と、現在の「支配」勢力がとくに「教育」においてなそうとしていることとの違いが私にはよくわからないのである。違いといえば、現在の勢力には「良心の疚しさ」の一片も、自らの「狡猾」さに対する自覚の一片も感じられないということだけである。 彼らは全然「啓蒙」されていない。かれらに必要なのは「啓蒙」であろう。そしてはじめて18歳の未来ある人間たちのまえに辛うじて立つことができる。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
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