カテゴリ:politics
波にさらわれるような感じ、昼間の波に打ちあげられている。「排他性」と「関係性」の危いバランスのなかで生きている。後者を志向しているのだが、前者で片付ける、そう強いられている(と感じたがる)疲弊した「私」がいる。しかし、「私」は依然として「関係性」から呼びかけられている、それは「排他的な部分」に同化しているように思えても、その部分はどういう歓びももたらさないし、どういう愉しみも実現しないということを、どこかで痛切に知っている「関係性」の「私」が、多様な「私」がまだ生き残っているからだ。
ある種の「老化」に見舞われていることは確かである。そのことについては生理的な衰弱のほかに、なんでも悲観的に考えるようになっていることから、そう思う。ペシミストの習いは、本来はどこか愉快なものであるはずだが、そういう余裕を奪われたペシミストであるということが「老化」の証左であろう。 でも、今日のニュースに鼓舞されている。G8サミットに果敢に抵抗するマルティチュードたちがドイツのハイリゲンダムに結集してデモを繰り返しているという。alternativeな力が死に絶えていないということこそ、この「世界」をいつでも新たにする最も良きものの一つではないだろうか。 自衛隊には監視され、記録される一方で、カフカ的な役所の極致である社会保険庁では(まさにカフカもこれと同じような役所に勤めていたはずだが、彼は勤勉で誠実な役人であった)、この国の総人口の半分近くに当たる5千万余りの年金支払いのための記録が散逸、混乱しているという。「人生いろいろ、年金いろいろ」という名台詞を吐いた人間が今でも首相なら、この文脈からは彼とその党も文字通り生き残ることはできないことになるだろう。実にすさまじい数で、古語で「あさまし」としかいいようがない。これを一年以内で整理すると豪語している今の首相は、ハイリゲンダムでにやけた笑顔をふりまき「環境問題でイニシアチブを日本がとる」などと言っている。内向き(内政)が必要なときには、いつでも外向きであり、外に対してきちんと言わねばならないときには、いつでも内にむけてのポピュリズムで人を煽る、単に目先の利益だけに固執するオポチュニストにすぎない。これが二代目、三代目の梨園にみまがう世襲政治家の限界であり、悲喜劇であることは明らかだが、迷惑を被るのは「私」たちである。迷惑の範囲内なら、騒音おばさんなる有名人もいるから我慢もしようが‥。 最初は「詩」を書こうと思ったが、路線が乱れたようである。 G8粉砕! お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
Last updated
June 7, 2007 09:51:17 PM
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