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園長の突然の辞意表明で、ここの関係者は右往左往しています。「お友達」が、実はそうではなく、一皮むけば敵だったということを、この園長は身をもって証明したかっただけなのではないか。これは昔からよくあったことだが、ここの学園では何か大きな錯覚をしていたのかもしれないね。
手をつないで、みんなで何かを叫ぶというのが最近の流行だった。前の園長のときに案出された「改革ゲーム」というのがあり、これに園児たちが熱狂したように観察家たちは報告したけど、ところが、このゲームは、要するに勝負を判然とするだけの奥行きのない丁半ばくちのようなものだったということが判然としてきたわけだ。まだ、このゲームの錦の御旗のような威勢は残っている。これを担いで立候補した「園長選挙」のようなもので、この若い園長は負けたにもかかわらず。そして、そのあとも「園長」でいて、今度は、産油国でもないのに、いや産油「園」でもないのに、これも前の園長からの受け継ぎで、夜郎自大的な「国際」園の旗印をかかげ、園児の保護者たちのなけなしの金を「油」にかえて、垂れ流し続けるということに、自らの職を賭すというたわごとを発言したりした。園の保護者たちが、みんなの老後のために、あくせく働いて積み立てたお金はわけのわからないままに雲散霧消しようとする最中に。どこに、この「園」の将来を見据えた戦略があるというのか。 そして、何が「そして」かわからないほどの因果関係の彼方で、この若き「園長」は突然、すべての「責任」をみごとに放り投げた。これには非常に感銘する。このような身の引き際のあり方は後代に、とくに教育の場面に深い影響を与えるだろう。この園では園児よりも立派に劣る先生たちを集めて、園「再生」会議と名打って、無駄な時間とお金と労力を費やしてきた。園長に召喚された園「再生」会議の諸先生方の「勝ち」方が、今や、取り返すことのできない損傷を実は、この園の「教育」に与えたのであり、白日のもとに「負け」に帰結するものであることを、園長自身のこのような辞め方が予言しているのではないか。もとヤンキーとか、もと斡旋業とか、もとヤクザとか、もうそういうくだらない「レッテル」で、園児を「教育」できる、できないなどと差異化することはやめないか。だれもがヤンキーであり、だれもそうでない、だれもが居酒屋で飲んだくれることもあるし、そうでないときもある、そんなことは明白なことである。人の可能性の一面だけで、いや現実的なあり方だけで、それがジャーナリステイックな関心を喚起するだけで、そういうものを「園」の再生に重要なファクターなどと考えるのは、おかしなことだ。人間のすべては「獣性」を帯びているものだ、それを売り物してなにが新しいのか。 暴れよ!最後までヤンキーでいよ!そのことで、この「園」の欺瞞と偽善を撃て!回収されるな!「園児」たちよ団結せよ!こういう叫びもむなしいに決まっているが、この園の、この再生会議の連中の、この園長の辞任のあとの、発言を知ると、こう叫びたくもなる。 新聞のコラムでは若い園長に向けて、次のような慰めの言葉を送っていた。しかし、この園長は、この和歌が本当に理解できるのだろうか、これは心もとないことである。 ―まどひきてさとりうべくもなかりつる心を知るは心なりけり― 西行 非常に、この園長には、もったいないような気のする西行のすばらしい一首である。(なぜなら、こういう心の発見とは正反対のことばかりを、ここ十年ばかり、この園では、とくに園児に押し付けてきたからだ。これが、美しい園の正体である。) お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
Last updated
September 13, 2007 10:06:14 PM
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