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連休最終日、安倍首相の病院での「謝罪」会見なるものを見る。日本的な感想をいわせてもらえば、諸行無常、というのか。なみだ目の首相は、しかし決して自らがこうした、ああしたというようなことは言わない。あたかも「突然の辞意」なるものが他者のようにどこかに存在し、それにもかかわらず、もと首相の孫や、もと文豪の孫は、一生懸命やってくださったというような発言のスタイルである。「突然」辞意表明したのも、もう一人のご自分であるかのような発言に終始し、この会見を主催した記者クラブの「幹事社」なるものから占められている質問者たちもいつものように、いやいつもよりも(相手は病人だから?)腰砕けの低レベルの質問しかしないとなると、この会見の動機は、「朝青竜」とは違って、私はなんらかの謝罪をしたというだけの「事実」を、これからの政治生命の延命のために仲良し記者たちと図って作ったということ以外にはないのではないか、と思ったりした。(まあ、どうでもいいことである)。 土曜日は福間さんの第6期目の国立公民館での「詩のワークショップ」に出席した。ゲスト講師として新井豊美さんが招かれていたが、新井さんの詩との出会いが「乖離のなかから」書き始めるということにあったこと、出会いと喪失と出会いの繰り返しのなかで「自分を作ってゆく」(決して、自分探し、などではなくて)ということにあるという話に強い感銘を受けた。新刊の「草花丘陵」が土井晩翠賞を受賞したということ。これは福間さんからの話だった。出席者の一人の、三角みづ紀さんは歴程新鋭賞を受賞したということ。これも福間さんからの紹介で知ったことである。終わったあとは、いつものスコール?で、takrankeさん、藤井さん、ぼくなどの飲酒同盟はビールとラム酒を飲む、このラム酒なるものは藤井さんから教えてもらったが、これが、きりっとして美味なることを知った、その後、ひさしぶりに「さかえ屋」で二次会。 いま、読んでいいるもの、ドストエフスキーの、亀山郁夫訳の「カラマーゾフの兄弟」、まだ第一巻の半ばだが、ぐいぐいと引き込まれてゆく。大学の一年のときに、巣鴨の三畳間のアパートで、ほとんど大学に行かずに何日もこもってド氏の小説を読んだことがあった。それ以来である。ぼくたちの世代はなんといっても米川訳が定番であった、あるいはそれより前の人は昇曙夢訳などで読んだかもしれない。昇は奄美大島出身のロシア文学者だった。もっといるだろう。しかし、この亀山訳の読みやすさというものは代えがたい。ただ、それだけで読んでいるのだが、ゾシマ長老の所に、いま有象無象が集って、ドンチャン騒ぎをやらかす場面だ。 庭にムラサキシキブが咲いていた。女房に注意される前に気づいていたのだが、わが庭のシキブの色は鮮やかではない。それは主人の、ペシミズムと不機嫌の反映であろうか。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
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