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昨晩は、六角橋ストリートはメリオールで、倉田夫妻、阿部嘉昭、廿楽順治、玉川満の諸氏と飲んだ。私は、途中から調子が悪くなり、みんなには悪かったけど、中座して帰った。家に帰り着いたのは、午前0時だった。どうも最近はキャパが、酒のそれはあるかもしれないが、議論のそれがとみに減衰しているようだ、風邪気味もあったのだが。今日は一日中寝ていた。
もうひとり、小川三郎さんも参加する予定だったが、仕事の都合で来られなかった。私は、詩集を頂戴していながら、お礼も言っていなかったので、お会いしたかったが、またの機会を期そう。 蜜日 真っ青な空に 古い電柱が刺さっている。 欲しいものなど何もなくなる。 (小川三郎『永遠へと続く午後の直中』05年思潮社刊より) そろそろ、自分自身の詩集の準備をしなければと思っている。 上記とは全く関係ない話。 書評に難渋していたときに、深夜のテレビで、Amy Winehouseという奇妙な名を持つ女性歌手の演奏が流れているのを見た。名前からして変だが、着ている服は野暮天squareな白いスーツ、しかし二の腕には刺青、そして明らかに名前の通りに酔っ払っている感じ。60年代の南部のプアホワイトの典型のような淋しい顔、一目見て、その異様さに胸をつかれた。そのとき、この書評を書き終わったら、彼女の演奏をyou tubeで探してやろうと思った。で、その動画を見ました。 こういう歌い手がいるということにアメリカを感じてならない。このクニのポップシンガーの「羊水」発言や、それをバッシングするメディアのmoralisticな偏狭さ、そのなかで自己批判と自足を繰り返す歌い手たちの貧しさ、これに比して、「偏狭」や「貧しさ」がどういう制限もなしに、violentに荒れ狂うなかで、酔っ払いになり、ジャンキーになり、自滅をたどる、たどったmusicianに事欠かないのがアメリカである。 まるで制服を着ているかのようなスタイルで、真剣に歌っているAmy、しかしその眼は完全に病んでいるかのようでもある、派手なパフォーマンスもない、しかし、そこには何かやむにやまれぬもの?が荒れ狂っている。痛々しいまでに。 (というようなことを書いたあとに、動画を見ると、新しいものが入っていて、それはbbcのお笑い番組に彼女が出ているものだったが、結構現代のどこにでもいるような芸人という感じもした。私は何かを錯覚することで、理想化したいらしい。Amy ぶどう酒の家 の話はどうでもいいことだった。単に、そのセクシャルなパフォーマンスに、あのときの私が反応したにすぎなかった、と今は思う) お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
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