夏から夏へ2
さて、湯浅さんがぼくにあてたメールはA4版の紙にプリントアウトして2ページにもわたる長大な英文で、ぼくの語学力ですべて理解できたかどうか心もとない部分も若干あるのだが、それについて書いてみよう。その前に彼女にあてて、ぼくは短い日本語のメールを8月6日に出した、それは次のようなものである。「引越しはすべて完了しましたか?ここ数日異常な暑さの中で、60回目の原爆忌を迎えました。あなたのお母さんのことを突然思い出しました。それから修学旅行の文集に書いてもらった「夏から夏へ」というお母さんの体験記(このタイトルはぼくが付けたのでした)のことも。それから、あなたが修学旅行のとき資料館にはどうしても行けなかったことなどを。 お母さんはいかがお過ごしですか?信州の方に移ったのですよね?いろんなことがありました。それでもぼくはこうして、あなたにメールを打てる歓びを再確認できています。」彼女のお母さんは、広島で被爆されていて、その体験記を修学旅行の事前学習のために書いてもらったのだった。そのことを思い出した。そして生徒だった彼女が体調というよりも精神的なバランスを崩して、資料館の見学を休んだことも。たぶん、被爆のことをいくら勉強したといっても、明るく笑い転げている同級生たちと一緒に、今までは他人事ではないという沈痛な気持で何回も訪れたことのある資料館に行くことは忍びなかったのだろう。20年以上も前のことだ。このぼくのメールに対する返事として、彼女は書いたのだろうが、そのメール自体が独立したエッセイのようなものになっている。最初にNYTに寄稿した例のITO氏の記事の論旨を紹介しつつ、それに対して自分の考えを書いている。ITO君の論旨をもう一回おさらいしておく。「ぼくの同僚もぼくもアメリカ人に対してはなんの憎悪も非難も抱いてはいない。原爆はどこか遠い国での出来事のようにぼくたちは感じられる。ぼくの世代にとって、広島・長崎の爆撃と戦争の意味するものは、それまでの文化的なもののゲームオーバーあるいはリセットボタンの代価物の表象に他ならない。意識的な政策と無意識的文化の複合の結果、戦争の痛みに満ちた記憶とイメージはそれらのコンテクストを失い、僕らのサブカルチュアのなかで捩れたエコーとして表面化している。好むと好まざるにかかわらず、広島後の60年の結果は、ぼくらは過去よりも未来について思案するということに他ならない。」これに対して湯浅さんは次のように反論する。I too have little hatred or blame for the American; after all, America is my adopted homeland, and many who are dear to me are American. However, having the mother who still suffers from the effects of radiation sixty years later (and having lost some uncles and cousins in Hiroshima and Nagasaki), Hiroshima and Nagasaki are not things of past to me. In the increasing frailty of my mother, Hiroshima lives on.こういう個人的な声の響きを私は信頼する。彼女にとってアメリカは第二の故郷であり、アメリカ人の「広島・長崎の原爆忌に対して、それが自分たちアメリカ人を告発するための儀式だという一般的な見解」に触れるのは悲しいと言う。彼女にとって原爆忌は、To me, it should be an annual pledge for the world peace, which, at this point, looks as unattainable as ever and perhaps an annual repentance for the past wrongs.年に一回の平和の誓いを新たにするものとしての原爆忌という考えと、忘れるための儀式として、それを考えるというITO氏。せめて人類の過去の悪事の悔悛の日として、その日を指導者たちが考えてくれるなら。アメリカに住んでいる日本人は一杯いるが、彼らとアメリカ人たちの会話のなかでタブーとなっているものは何か。それは第二次世界大戦(原爆)のことだ湯浅さんは書いている。それに違反した場合、必ず、Pearl Harbor、the massacre in Nanking, and other countless Japanese brutalities throughout the Asiaの引用で逆襲される。たしかにヤンキースの昨日の試合結果や日本の結婚の風習のコミカルな説明で会話を楽しく盛り上げたほうがいいかも知れない、しかしそんなお世辞や臆病さばかりが尊敬を勝ち得るということもありえない。I ,myself, have talked about Hiroshima to only a handful of my American friends. Thanks to their great intellect, learning, and sense of justice, they all listened to me seriously and sympathetically. Some of them went to Hiroshima and wrote to me their thoughts upon viewing the exhibits.具体的な草の根のつながりからこそ核兵器廃絶の願いとそのための現実的な行動が生まれるとしたら、生まれるのだと、私は思う。原爆や戦争に関する「物語」として、湯浅さんはITO君の物語に抗するように(もちろん彼女にそんな意図はない、これは私の考え)、いくつかのエピソードを書いてくれた。その一つは彼女の姪御さんがブラッセルにいるらしいが、お祖母さんの被爆体験記「夏から夏へ」をもとにした小説みたいなものを作り学校で発表したということ。それに関しての湯浅さんの感想、I think it is important to tell such stories occasionally, not to propagate hate nor to accuse, but to remember and realize how precariously close we are to man-made disasters and sufferings again.これには全く同感する。二つ目は、彼女が渡米して間もない頃に会った日本軍と戦った退役軍人の話。彼は彼女を熊のようなハグで抱きしめて涙を流しながら、「自分が日本に上陸してわずか40年にしか経ってない、あの荒廃した不毛な国から、こんな美しいお嬢さんがやってきてくれた、私は幸福だ」と語ったというのである。この軍人はおそらくジョン・ダワ―の”EMBRACING DEFEAT”描くところの日本の敗戦後の虚脱と荒廃を心深く刻んで忘れることができなかった良心的なアメリカ人だったのだろう。三つ目と四つ目の彼女の聞き書きはもっとも例のITO君の物語とその記事の論旨に対立するものである。なぜか。その話が特殊日本人のものではなく、普遍性を備えているということ、そしてその話を聴く耳を湯浅さんが育てたということ、その話から受け取ったイメージを優勢な政治勢力の意図的な政策や無意識の文化の流動の混合のなかに置き去りにしないで、そこからつねに救出しつづける努力をしたということ、そのことによってはじめて、これらの話はその文脈を自らでしっかりと保持することになるのであるから。老齢のユダヤ人の女性の話。ポーランドに住んでいた彼女は戦争が始まったとき、このままでは自分達の運命の悲惨な結末はまぬがれないと考え、その両親を説得してロシアに逃れようとする。しかし、父親はすべては神の意志だといって拒否する、母親も同じだ。彼女は両親を捨てて妹と二人で脱出する。戦争が終わってからアメリカに来た。残された両親は収容所で非業の死を遂げた。両親を捨てて生き延びたこの女性はロシアでの困難さや彼女のどんな悲しみにも言及しない。彼女は成功した三名の娘に囲まれて幸せである、そしてその娘達のことを彼女の人生における最高の達成とみなしている。最後は、湯浅さんの友人の祖母の話。南京にて。1937年、日本軍が侵攻してきたとき、この女性は三名の小さな子供達と家にいた。7歳の娘と4歳の娘、もう一人は幼児の息子。何千名もの人たちと同じように、この女性も南京を脱出する。息子は抱いて、4歳の娘はその手を引いて、そして上の娘には後をついてくるように言って。長くてつらい道。上の娘はつまずいて足首をくじき動けなくなった。その娘を背負って歩くが、もう自分も一歩が踏み出せない、そこで上の娘をおろして、必ず戻ってくるからと約束して、また歩き出す。下の4歳の娘がもう歩けないというまで、綱で引っ張って歩く。今度は4歳の娘を通過した小さなワゴンに先まで乗せてくれと頼む。翌日、親戚のもとに到着した、そこに息子をおいて、彼女は二人の娘を探しに引き返す。7歳の娘の切りさいなまれた死体を発見するが、4歳の娘の消息はわからなかった。友人は湯浅さんに次のように語ったそうだ。「お祖母さんは彼女の長いつらい人生のなかで、この二人の娘について決して語ることがなかった、でも彼女の最後の言葉は、うれしい、私はとうとうあの子たちにまた会えるんだから」。南京で二人の娘を捨てた女性の話。とくに最後の二つの話は私を深く感動させたものである。この共通して「強い」女性たちの話は、人間はどんな悲惨な経験をも乗り越えることができるものだという教訓を与えるものなのだろうか?私はそうは思わない。一つ言える事は、人間がつくった悪魔的な災厄と苦難は現に今でも存在し、未来においてもそうたやすく無くなることはないだろうということである。このことに目をふさいで、単純に未来の経済的な繁栄と改革を予祝し寿ぐ気持には絶対になれないというのが私の正直な思いである。今日8月15日、60年前と同じく澄みわたった暑い夏空であった。今午後4時前、急変し、周囲は暗くなってきた。大雨が降るであろう。Thanks to Mashiho!